成田氏と別符氏


国立国会図書館蔵絵図,絵図に見るくまがや展パンフレットから



忍城_原江_熊谷堤


「のぼうの城」

                
                            成田氏と別符(別府)氏
 
 映画「のぼうの城」で石田光成の水攻めに耐えた忍城、成田氏が忍の大亟を攻め滅ぼして再築城したといわれていますが、それは別符氏の猶子となった、きくおう丸から始まった。これは道久の譲状から分ったことで、猶子を今の養子と同じにとるか、とらないかで違ってきてしまいます。でもこの譲状の文言では別符氏が領した本来の別府郷(現在の熊谷市)の安枝名でなく、「中条保」と「上江袋」の地を猶子の「きくおう丸」に与えています。譲状では、継ぐ嫡子に与える地名は書かなければその地の安堵状をもらうことができなかったと思われます。

  2012年3月に、京都八坂神社所蔵史料を東京大学史料編纂所と埼玉県立文書館が共同調査を行った結果、安保氏関係文書(播磨国須富荘関連資料など)が見つかり、成田系図に見える「成田家時」の頃、安保氏が成田郷を継いで成田を名乗った後の、「成田泰員」であったことが分かり、家時は実在の人物ではなかったと考えられます。この事から、成田系図は信頼できる系図ではなかったと考えられます。

 安保氏が入ってきた以降、乱れがあるように思います。それを表しているのが下載の「道久の譲状」と思います。自分の子でない、成田氏の子を別符氏の猶子としています。

  細かな内容は、下記の調べた資料を読んで見て下さい。これは私的に調べたことですので、間違いもあると思います。間違っていると思われるところなどがありましたら、メール下さいますよう、よろしくお願いいたします。

   これまでの成田氏に関する研究などでは、成田系図や成田記などから成田氏や別符氏のことを調べていたように思われます。
 どちらかといえば、成田氏中心の調べ方で、別符氏は隅に置かれていたと思いますが、後醍醐天皇や足利尊氏,足利成氏などの書状からみると、成田氏がもらった書状は見られず、別符氏のもらった書状が数多く見られます。
  成田氏も鹿角や出雲に所領を得た文書もありますが、別符氏(西別符氏か)も来海の弘長寺を開基した文書もありました。

  現在ネット上で見かける情報は、ただ本を読んだだけで、その情報を信じてそれを垂れ流しているようにも思います。じっくりと読んで、そこの解釈が正しいのか、調べてみる必要があると思いますが、大部分の人は著名な人の書かれた本であればそれを信じてしまうと思います。その人が有名であっても、そこに書かれた元の文献をできるだけ探して見つけて自分なりの解釈をしました。

  年代順でなく関係すること(あまりしないことも)をランダムに追加していきます。           
    

201412〜
01 カバー絵変更 20160609
02 別府城址他追加(ユーチューブ)  20160704
03 カバー変更,関連サイト追加ほか 20160729
04 表紙ページ、一部変更        20170705
05 背景画像変更             20170803
06 表紙ページ、文章一部修正     20180624
07 表紙ページ、朱記訂正,追加    20181220
08 表紙ページ、朱記訂正        20190207
09 表紙ページ、7.忍城,岩付城は誰が築城したのか 追記20190404
10 fuji_shinのブログ追加 20190709
11 「成田氏家臣行明」を「白河候家臣成田行明」と訂正 20200324
12 Flash Playerは 2020年12月に廃止となりますので削除 20200506

13 忍城,岩付城は誰が築城したのか−その2    20200517
14 湯殿神社ホームページへのリンク追加      20200521
15 忍城,岩付城は誰が築城したのか−その2改版  20200523
16 O 修正変更                   20211125
17 googleサイトで、「白髪神社 」の事から書き始めました20220122
18  googleサイトにホームページ「幡羅郡 別府氏」を作成 20220201
19 追記  
20 googleサイトに「東山道」作成開始         20220327
21 「大宝八幡宮の銅鍾」:流浪の銅鍾 岩槻から大宝村八幡社へ  20230915
       02:5ページ 1個所 高安寺から平林寺に変更 20231007
22「成田下総守はどのようにして忍城に入ったのか」20230912
  02:20231007追記

 熊谷市郷土文化会誌の田村五郎氏の別府文書から
道久譲状
  1.  宗智(別符行宗)は幡羅郡古別符郷内安枝本名幷中里村を嫡子せんすそう(幸時)に譲りました。
     幸時の玄孫の道久(幸忠)は甥の成田家長男の家幸を養子として、幡羅郡別府郷と埼玉郡中里(下増田)村を譲り、同じく甥の成田家次男の菊王丸(資員か)を猶子として、埼玉郡の中条保と上江袋郷を譲りました。
    成田氏と別符氏 
     弘安10年(1287)、宗智(別符行宗は、古別符郷内安枝本名幷中里村を嫡子せんすそう(幸時)に譲りました。
     
     暦応2年(1339)、「成田基員は、騎西郡成田郷成田・箱田平戸村郡司識、恩賞に給いたる成田四郎太郎秀綱跡・同五郎左衛門入道(家綱カ)跡・平戸小八郎跡などを嫡子“くす王”に譲与しました。」
     
     永享2年(1430)、道久は、甥の“きくわう(きくおう王)丸”を猶子として、武蔵国中条保・上江袋の郷を譲与しました。安保氏の基員が成田の名前を継いだ後(その前からの慣習であったかもしれませんが)、嫡子への相続は“○○丸”としているように見えます。別符氏は“せんすそう”で“”は付いていません。
     
     成田系図の意味が不明な箇所、「資員 五郎左衛門 二男立嫡子」、「家清 五郎四郎 太郎 立二郎」、これは成田系図や別符系図からだけでは説明ができないことと思われます。
     "資員は次男だが嫡子として立てた”、“家清は長男だが次男を立てた”として見ると、道久譲状は、別符郷の本名は家清に譲って、資員を猶子として「中条保と上江袋の郷」を譲ったものと考えることができます。
     *資員の名も成田系図や成田記など、龍淵寺に関係する史料からしか見えない名前です。資員は実在の人物
       でなく、成田記にある8歳で家督を継いだ顕泰が資員だったのかもしれません。

     東別符嫡家系図には、家幸の付記に、「実は成田家時(家時が跡を継いだ形跡はなく、安保系成田泰員と思われる)嫡男也、家幸舎弟下総守家長禅照寺トテ二人アリ」とあります。
     この系図は東別符氏のことを記していますので、「家幸舎弟下総守家長」が猶子のきくおう丸(資員)を指しているように考えます。

     旅宿問答(永正4年(1507))で彦右衛が成田四家のことを語っておりますが、保元物語の頃は別の家系(埼玉(さきたま)郡と幡羅郡))であったのが重要視されておらず、永享元年(1429)以降、この道久譲状の永享2年(1430)のころから別符氏と成田氏の関係(別符氏と安保氏の関係はこれ以前からあったように考えますが)ができて、旅宿問答(1507)などから江戸時代の頃、成田氏と別符氏の系図を作った人が、「成田四家」を作りだしてしまったように考えます。
     
     これから(今後)、成田氏に関する一次史料が見つかる可能性もありますが、本来は成田氏が持っているべき「西條氏」や「若児玉氏」の文書を別符氏が持っていたり、別符氏の事跡である、別符氏が持っているべき文書を幕末から明治初期に「白河候家臣成田行明※1」が持っていたりしており、別符氏と成田氏の関係は成田系図や別符系図だけから判断する、調べていくことは間違っていると考えます
     
     現在残されている成田系図や別符系図からすると、別符氏は行忠の受領名などから、「藤原」の流れを継いでいるとした系図が正しいようにも思われますが、成田氏は中條氏と同じ横山党の流れで、元は別符氏とは別の流れであったように思われます。
     
    O 別符氏は不思議です。藤原の姓も名乗れたようです。 成田氏は武蔵七党の「横山党」、中條氏と同じ崎西郡に居住したとすれば、横山党説も納得できそうです。
      別府氏は、寛元元年(1243)の将軍家(藤原頼経)政所下分の宛先に、「右兵衛尉藤原行□(忠)」とあり、親の刑部丞維行法師からの別府郷の地頭識を継ぐことを認可されています。別府氏は藤原不比等の後裔だったようです。
     
     幡羅郡の幡羅郷、そこは冷泉院の勅使田となった。そこには元は郷司だったかもしれませんが、国府の管理する田地とは別に田地を管理する人を置いた。
     それで、「国府」とは別の府ということで、「別府」の名ができ、別府氏と名乗ったように考えます。そして幡羅郷は、別府郷となり、ここを管理する人が別府氏を名乗り、その地に1050年頃、京の都から「藤原任隆」が入って、別府氏を名乗ったと考えます。
     書状に「古別府」と見えるのは、冷泉院の御料地であったため、国府とは別の府ということで、「別府」と呼び、後から入ってきた藤原氏(任隆)が、元々あった「別府」の名前を引き継いだと考えます。
     このことについては、未だ現在まとめ中です。

    ※1:白河候家臣成田行明は、関城書考の書末に記載されており、その後、三方領地替えで桑名藩へ移りまし
      た。先祖は「のぼうの城」の長親で、成田系図を作った成田長任の後裔のようです。

    O 東京大学史料編纂所と埼玉県立文書館の共同で、平成24年(2012)、京都八坂神社所蔵史料の調査で、安保氏に関する文書が見つかり、成田系図の成田家時の代頃、安保氏が成田郷の地頭識となって、成田氏を名乗っており、成田系図は正しい系譜が記載されていないことが、明白となっております。このことは、龍淵寺の創建も、成田家時でなかったことになります。


    R 龍淵寺を創建したのは、足利政氏だったようです。杉本伊豆守と成田顕泰に命じて造らせた!! まとめ中。


別府沼公園

別府沼公園


 新規追加忍城,岩付城は誰が築城したのか−その2

 1.忍城 ←:忍城の秘密  03版20150312


 2.龍淵寺の不思議 ←:和庵清順の生年から


 3.別符氏について ←:成田家は嫡流ではなかった?


 4.別符氏と成田氏を譲状から←:譲状から成田氏は別符氏の猶子となった


 5.別符氏と成田氏系図から ←:別符氏の跡を成田氏は引き継いだ


 6.猶子  ←猶子とは

 7.忍城,岩付城は誰が築城したのか ←:成田氏は忍城を再築城したが、岩付城は太田道灌か成田正等か? 20220723改版
    「関東禅林詩文等妙録自耕斎詩軸幷序(信濃資料)」岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等”⇒成田正等???20160729
 

 足利政氏が上杉顕定を支援するようになったのは、明応3 年(1494)の荒川の合戦で、上杉定正が対陣中、落馬の傷が元で死亡
してからとしているとの情報が多いですが、
 長享2年(1488)の、大森氏頼が定正に宛てた「大森教訓状」に、
  “結句古河様御捨の由 有るべし其れ聞き候、”
 
 長享2年の「上杉顕定書状」に、
  “御方御所(足利政氏)様、今に横田御張り陣候、去15 日合戦の時、手負い死人数多く候上、御勢衆相帰り候、このみぎり成り行
き候は、本意疑い有るべからず候、10 日を以ってこれを用意、時日を移さず着陣候は、大慶為すべし候、委細、尻高左京亮が語伝え
るべく候、
         恐々謹言
        十一月廿三日  顕定
           中条弾正左衛門尉(定資)殿”、
とあり、長享2年11月15日(1488)の高見原合戦の後、足利政氏を横田陣に置いたまま、上杉定正は川越城へ帰ってしまったようです

  また、一次史料ではありませんが「旅宿問答 」に、
  “先年長享年中に、上杉棟梁山内顕定、同名修理大夫定正と発波乱、然るに将軍佐馬頭政氏顕定為合力引率一万余騎、
村岡如意輪寺に有り発向す”とあります。

 長享年中(1488)に、既に、政氏は顕定に与していたと考えます。


 8.忍城の動向 :←享徳の乱での忍城、雑説があっただけ


 9.成田氏の家紋(関東幕注文から)

10.足利成氏の書状から :←日本中世の書状のマナー  02:2015/02/11


11.変体仮名と崩し字 

12.熊谷町 竹井新右衛門 :←別符氏の親戚


13.太田道灌の久下寄陣 :←どうして石田三成が陣を張った丸墓山に陣を寄せなかったのか、標高?


14.別府城跡と旧利根川跡 :誰が造った。能行の子の維行(私の推論)か一の谷の戦いに義経に従った清重か?


15.霞堤(中条堤)とピラミッド :←何のための建造か?


16.武蔵国幡羅郡米五斗 :←幡羅郡から多賀城へ、幡羅郡家(郡衙)遺跡,西別府廃寺・祭祀遺跡


17.成田四家 :←成田四家説は「旅宿問答」の彦右衛の問答からから作られた? :03版2015.08.14


18.別符氏の出雲領地と伊勢神宮御厨 :←西別符氏は出雲来海庄の地頭、東別符氏の安枝名は御厨となった


19.東光寺                 :どこに在ったのか?

20.旧高旧領取調帳から明治4年7月熊谷市地図:←熊谷には8県あった!奥原晴湖は上川上村に住んだ!

       ・明治4年7月熊谷市地図修正版←廃藩置県後  
           ※実際には廃藩置県前明治2年の布告(行政官)で、岩鼻県,若森県,品川県,大宮県,宮谷県ができていました
                   それ以前の明治元年は、大音厚龍が「岩鼻知県事」に差遣されただけで、「岩鼻県」を置くの令は見えない

               
・明治4年10月熊谷市地図群馬県(第1次)成立時

       ・明治4年11月熊谷市地図埼玉県、入間県成立時

21.安楽寺:←熊谷市西別府安楽寺落慶法要 2015.03.26
                     2017.04.01桜、九品仏追加


22.武蔵国旗羅郡村誌からの西別府小字地図:←地租改正図から根岸と足利が入れ替わったり、宿がなくなったりした

23.幡羅郡地図 :←現在地図に幡羅郡を比定    02版:20160729   03版:20161102「奈良新田位置修正」

24.「埼玉県史叢書11」のお知らせ :←2016年5月28日追加

25.「道灌公略譜」から岩槻城などの築城考察:←2016年6月2日

26.荒川の瀬替えはなかった! :←2016年6月12日, 02:8月9日表題他変更,03:2021年6月15日表題内容一部変更
   ※ 「利根川の東遷」はあったが、「荒川の西遷」、瀬替えはなかった。忍城との間に荒川古川があった!

27.武蔵国幡羅郡の幡羅郡家 :←幡羅郡家(郡衙)の地を別符郷が引き継いだ?  2016年9月1日

28.白髪神社は幡羅郡のどこに在ったのか? 2022年1月22日    02:2022年10月18日削除

29。羅郡 別府氏 グーグルサイト   2022年2月1日

 ●全国の白髪神社 Amebaブログ 2022年10月18日

 ●白髪神社 Amebaブログ 2022年10月18日

 ●古代東山道 Amebaブログ 2022年10月18日

 ●古代東山道 その2 Amebaブログ 2022年10月18日

30.大宝八幡宮の銅鍾 :岩槻平林寺の撞鐘はどこへ行きついたのか?

31.成田下総守はどのようにして忍城に入ったのか 
:成田記に書かれていることは真実ではない!


※.ふじい屋 ←商品の販売はしておりません
 
※.熊谷_別府村_ブログ←花など ☘️☘️☘️☘️ 🌸

※.幡羅郡_別府郷   ←別府郷とは?  


別府城跡(ユーチューブ)

 ※虎口のような構造も見られますが、城というよりは鎌倉時代の別府郷の地頭の東別府氏の館があったところの跡のように思われます。






☆関連サイトほか☆

独立行政法人農業環境技術研究所 歴史的農業環境閲覧システム ←明治時代の関東近辺の地図が見られます
   *電源設備点検にともなう停電のため、9月25日(金曜日)9時から9月28日(月曜日)16時まで、サービスを停止中

国土地理院地図 :←電子国土Web:熊谷近辺の標高地図などが見られます(拡縮もできます)

熊谷市ホームページ :←熊谷市のWebサイトです

国立国会図書館デジタルコレクション :←デジタル化された書籍が検索でき閲覧できます

古典籍総合データベース :←早稲田大学図書館のデジタル化された書籍が検索でき閲覧できます

慶應義塾大学文学部古文書室 :←デジタル化された書籍が閲覧できます

東京大学史料編纂所 :←デジタル化された書籍が検索でき閲覧できます

旧高旧領取調帳データベース:←国立歴史民俗博物館の国・郡・郷のデータを検索できます

史料にみる日本の近代 :←開国から戦後政治までの軌跡(国立国会図書館のサイトです)

日本中世書札礼の成立の契機:←文書作成上の礼儀や法式の規定書(名古屋大学)の論文

今昔マップ on the web:明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら見ることができます

中山道分間延絵図(10巻之内2)重文:←中山道沿いの東別府、西別府は遠くに(東京国立博物館)


国立国会図書館蔵書
埼玉叢書. 第1巻:←北武蔵名跡志,訪𤭖録,武乾記ほか

武蔵(太田亮 著 :←日本国誌資料叢書

大日本地誌大系. 第1 第11冊 新編武蔵国風土記稿拾壹:←
幡羅郡,大里郡,埼玉郡ほか


埼玉県立文書館

埼玉県立文書館 展示のご案内
昭和44年〜平成28年

   ・戦国期の埼玉 後北条氏展(昭和54年)


駒澤大学学術機関リポジトリ内 ←2016年07月06日追加

太田道灌山吹譚について (水原 一 氏)  ← 「やまぶきのみのひとつだに...」は???

足利持氏専制の特質―武蔵国を中心として― (稲葉 広樹氏)

御嶽・三ツ山城主長井氏に関する基礎的考察 (浅倉 直美氏) ←御嶽長井氏


埼玉県立嵐山史跡の博物館 歴史講座「小田原北条氏支配の武蔵」 ←2016年07月10日追加
 於 埼玉県立嵐山史跡の博物館(会場:国立女性教育会館)

「小田原北条氏と武蔵国衆」 レジュメ ←2016年12月14日変更


歴史講座「忍城主成田氏と北武蔵の戦国時代」 レジュメ   ←20160916追加
【考察】
 足利成氏は成田陣から古河に帰った、文明年中に成田には杉本伊豆守がいて、成田にいなかったと思われる成田氏、どうして忍城を築城できるのか? 足利政氏の忍城攻めの時に、成田氏も加わって忍城を攻め落としたのでは。

歴史講座「戦国時代の騎西城について」 レジュメ  ←20161021追加


・ 歴史講座「戦国武将と起請文―北条氏を中心に―」 レジュメ ←20161210追加


さいたま市立博物館

〔pdf]H25.7.22 岩槻城の歴史講習会 
←岩槻城と城下町より 2016年7月28日追加



ぶぎん地域経済研究所

伝説に包まれる岩槻城(前篇) 
←ぶぎんレポート No.172 2014312月号 2016年7月28日追加 :20160902修正

伝説に包まれる岩槻城(後篇) ←ぶぎんレポート No.173 2014年1月号2016年7月28日追加 :20160902修正


国立公文書館デジタルアーカイブ

忍城攻之事            
←写本 ,文化02年

小田原城              ←正保_小田原城
 

東別府祭ばやし[熊谷市指定無形民俗文化財]

別府沼公園周辺の花02





ふじい屋


メール:fuji@sky.bbexcite.jp
*コメントなどがありましたら、@マークを半角文字に変えてメールしてください。









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