武蔵国幡羅郡の幡羅郡家

1.幡羅郡家
 和銅6年(713)に発せられた勅令、諸国郡郷名著好字令で「原郡(はらぐん)」は「原」を二字とし、「幡羅郡(はらぐん)」となりました。郡家のある「原郷(はらごう)」でしたら、「幡羅郷(はらごう)」となっていたはずです。
 残された絵図や地図から、幡羅郷の位置を考察していきます。下載の二つの絵図は新編武蔵風土記稿の幡羅郡絵図の一部(国立国会図書館デジタルライブラリーより)に、朱記,朱印を追記。 

正保(1645〜1648年)絵図
正保




原江村(はらごうむら)

*「はらごう」又は、「はらえ」であったと推測される

*幡羅郡家跡は西別府村と東方村の境で発見された

 元禄(1688〜1704年)絵図
元禄

 


原郷村(はらごうむら)

*「江」は「ごう」の読みもあるため、同じ読みの「郷」の字が当てられたと推定
 
 その他の絵図,地図の原郷の表示

武蔵野国道案内(江戸中期):埼玉県立図書館所蔵資料
江戸中期

 



←江原郷(えばらごう)?
 黄マーク内文字は郷の崩し字

 




←江原上下

 

 





←上新郷(かみしんごう)

武蔵国絵図(天保9年(1838)):国立公文書館デジタルアーカイブ資料
天保9

 







←原ノ郷村(はらのごうむら)

富士見十三州輿地全圖(天保13年(1842):国立国会図書館デジタルライブラリー
天保13


 






←原江(はらごう)

武蔵州輿地全図(1800年代):埼玉県立図書館所蔵資料
1800









←上新郷(かみしんごう)
←中新郷(なかしんごう)
←粟郷(あわごう)?

武蔵国全図(安政3年(1856)):ウィキペディアより
安政3

 







←原江(はらごう)

武蔵国独案内図(江戸後期):埼玉県立図書館所蔵資料
江戸後期

 







←原郷(はらごう)

武蔵国全図江戸末期:埼玉県立図書館所蔵資料
江戸末期

 









原郷(はらごう)

 新編武蔵風土記稿の正保絵図(1645〜1648年)では、「原江(はらごう)」であり、元禄絵図(1688〜1704年)で、「原郷(はらごう)」となっており、その後の表記では「原ノ郷(はらのごう)」,「江原郷(えばらごう)」,「粟郷(あわごう)」?で、江戸末期には「原郷(はらごう)」となっているが、その間の富士見十三州輿地全圖(天保13年(1842))地図や、その後の武蔵国全図(安政3年(1856))では、「原江(はらごう)」の表記も見えています。
 考えるに、最初は「原江(はらごう)」であったために、諸国郡郷名著好字令でも、変わらず二字の「原江(はらごう)」として、それが場合によっては読みの同じ「郷」の文字に変えられ、その「原郷(はらごう)」が残ったものと思われます。
 そして、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための「旧高旧領取調帳」では、「原ノ郷村(はらのごうむら)」となったようです。明治19年(1886)の迅速測図でも、同じく原ノ郷村(はらのごうむら)となっています。

迅速地図出展:農研機構・農業環境変動研究センター
迅速地図

 

深谷市


 明治22年(1889)町村制施行によって、東方村、原郷村の一部、国済寺村の一部、柴崎村、本田ヶ谷村が合併し幡羅(はたら)郡幡羅(はたら)村 ができたようです。
 この時に初めて、「」から「幡羅」となり、昭和30年の深谷市との合併で、幡羅村は深谷市原郷と昔の「原」 の字に戻ったようです。

そして、昭和50年代に、柴崎と上野台東部を中心に上柴町ができて、東方南部と柴崎北部の工業団地のある一帯が「幡羅町」となり、また「幡羅」の名が出てきたようです。

幡羅遺跡は、平成13年度(2001)の発掘調査で見つかり、中央部の道路が北東−南西方向に走り、その北西に正倉院、南東に実務的な官衙施設が確認され、東には西別府廃寺跡,西別府祭祀遺跡も確認されていますが、郡庁跡は未だ見つかっておりません。

 郡家の中心である郡庁跡は、今の深谷市原郷地区ではなく、深谷市東方と熊谷市西別府の境目あたりにあると考えられます。

幡羅遺跡:深谷市ホームページより

幡羅遺跡


和名類聚抄:元和3年(1617)の古活字版:国立国会図書館デジタルライブラリー

倭名類聚抄

  
 左の和名類聚抄の原本は、承平年間(931〜938年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書で、この時には既に、「原」郷でなく、「幡羅」郷となっています。
 
 この幡羅郷の中に現在の地名の範囲と異なっていたかも知れませんが、「べっぷ」,「ひがしかた」,「はらごう」などが含まれていたと考えます。


史料通信叢誌4_明26〜30:国立国会図書館デジタルライブラリー

関東下知状

 

 源頼朝下文となっていますが、元久元年(1204)の発給ですので、正しくは源実朝であり、現在では関東下知状とされているようです。
 
 和名類聚抄以降に、「幡羅郷」と書かれている文書を探しましたが見つかりませんでした。この幡羅郷は、幡羅遺跡が見つかった今は、西別府と東方の丁度、境目あたりにあったと推定できます。

 その場所について、左の下文では、武蔵国とあり、郡名は書かれていませんが、別府郷となっており、既に幡羅郷から別府郷と、郷名が変わっていたと推測できます。
 原江は、原江郷で、「はらごうごう」では可笑しいような気がしますので、「はらえごう」だったのかもしれません。

 

2.東方の地名の由来

 
 現在の深谷市東方の地名の由来について、フカペディアには熊野大神社の由緒で、『十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときに当地を通り、里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねたという。醍醐天皇の御代に至り、この地に枇杷の木を棟木として小社を建てて、日本武尊の故事により東方村と名づけられたという』とあります。

これは東方熊野社碑(従六位 岡谷繁実 撰)の文言からのようです。岡谷繁実は修史局(東京大学史料編纂所の前身)御用掛などを歴任、鎌倉宮宮司、氷川神社宮司となった人で、墓所は深谷市の清心寺とのことです。

この大和武尊の故事は、碓氷峠頂上にある長野県側の熊野皇大神社と群馬県側にある熊野神社の由緒(...日本武尊は八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によると考え、ここに熊野三社を祀った)から持ってきているように思われます。

 東方の熊野大神社の社頭掲示板には、『当社の創建について、社記に−延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す−とあります』と書かれているようで、これから考えると、フカペディアの解釈でなく、熊野大神社の社頭掲示板の方が正しいように思われます。

 

現在の地図で見ると、東方(ひがしかた)は碓氷峠から見ると真東ではありませんが、東方(とうほう)にあります。

碓氷

 新編武蔵風土記稿によれば、“慶長3年(1598)の郷村にも見えたれば”とあり、正保年中改定図(16451648年)にも東方村が見えますので、東方の地名は江戸時代以前からあったようです。
 

 次の地図は、フカペディアより引用させて頂いた大里郡幡羅村全図の一部ですが、東方の熊野大神社の南側に「碓氷分」の地名が見えます。

これは、社頭の掲示板にある、『当社の創建について、社記に−延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す−とあります』の「上野国碓氷郡熊野本宮」の領地としていたので、「碓氷分」と地名が付いたとも考えられます。

幡羅村全図の一部:フカペディアより

東方碓氷分

足利尊氏書状


 左載の書状に、
「別府(符)郷東方闕所分」と見えます。これは、別府郷の「とうほうの意味のひがしかた」を差しているのか、熊谷市の西別府と境を接する深谷市の東方を表しているのか不明ですが、見つかった幡羅郡家跡からすると、元は同じ郷内であったと考えられます。


 幡羅郷から別符郷に名前を変えたとしたら、深谷市の東方も別符郷に含まれていたようにも考えられます。

 原郷は幡羅郡内の幡羅郷内であったかも知れませんが、郡家のあったところではありません。
 幡羅郡家は、幡羅遺跡が見つけられた、別府と東方の接するところにありました。