「道灌公略譜」から岩槻城などの築城考察

 「道灌公略譜(史籍雑纂苐三家傳史料6:国立国会図書館)」から、誰が岩槻城を築城したのかを考察してみます。 

道灌公略譜  道灌公略譜に「長禄元年丁丑、使千代田、齋田、實田三氏之家臣、築城壘於武州江戸、河越、岩築矣」とあり、千代田氏,齋田氏,實田氏と三人の家臣を使って江戸城,河越城,岩築城を造ったと思われます。
 この千代田氏については、「江戸名所図会(大正11年編(原本は天保3年(1832))国立国会図書館」に、
「千代田村奮跡 江戸名所圖會に云。今小傳馬町の裏の小路に。千代田稲荷といふ。小社あり。相殿に諏訪明神を勧請す。此地の里正宮邊某昔忍ヶ岡の麓より宅地に移すとなり。霊験奇瑞頗る多しといへり。或人云。此宮は寛正中太田道灌の弟千代田若狭守の勧請なる故に此名ありと。されども道灌に若狭守といへる同胞ある事を考へす。又系圖にも此名見えす。」とあり、

   千代田若狭守のことは、はっきりと分らず、系図にも見えないとしていますが、弟ではなかったが、家臣の千代田氏がいた可能性もあります。そして、推測ですが、千代田氏は江戸城の築城を担当したのかもしれません。
 次に齋田(さいた)氏と賽田(さいた)氏ですが、『新編武蔵風土記稿』に、「龍門寺は天文十九年(1550)斎田若狭守開基せりと云ふ。若狭守が法謚を玉峯道全上座と号し卒年は伝へず。按に足立郡花又村宝性寺の開基斎田左兵衛尉頼康・大永元年(1521)七月二十三日卒せりと、彼寺の伝へに頼康は岩槻の城主雅楽頭某の子なりと、されど岩槻は其頃太田氏の居城にして、彼家系にも雅楽頭と云をのせざれば、恐くは若狭守も頼康の一族にして太田氏の旗下なりしならん。今も太田家に斎田氏の家人あり」と記されているので、道灌公と関係のあった先祖がいたようにも考えられます。そして岩槻との関係も見えますので、推測で賽田氏が岩槻城を築城したように考えます。
武功雑記 斎藤安元  
もう一人の齋田氏は斎藤氏の間違いかも知れないような気がします。 
 
 「武功雑記」は、肥前平戸藩4代藩主松浦鎮信(しげのぶ)が記した戦話(1696年成立)で、天正〜元和期(1573〜1624年)の諸士諸将の武勲を雑記したものですが、この中に、年代から外れた扇谷定正の家臣について書かれた次の文、

「川越には扇谷被居候。岩付に永元被居候。江戸に太田道灌被居候。道灌内曽我兵庫 高麗越前。両人武勇の者あり」

と道灌公が江戸城にいたころ、岩付城に聞いたことのない名の「永元」がいたようです。
 永元氏、見つかりませんでしたが、最近の本の「戦国軍師列伝(川口素生氏著」で「元」の字を見つけました。道灌公に仕えた軍配者に、「斎藤安元」が見えます。
 少しこじつけがましいですが、岩槻城にいた「永元」は、「斎藤安元」を指しているのかもしれません。 

東路の津登

 この斎藤氏は、上杉定正が亡くなった後、駿河の今川氏に仕えたようです。
 永正六年(1509)の連歌師の宗長の「東路のつと」に、『艸家の燐家「斎藤加賀守安元」一折と...』と記されており、この時には駿河に居を構えていたようです。

 永享二年(1430)頃に長男の家清が別符氏の養子となり、次男の資員が別符氏の猶子となった成田氏、成田氏は岩槻城を築城できる力はなかったと考えます。
風土記稿  左は新編武蔵風土記稿の入間郡の河越の一部で、「すべて道灌が築きし城は當国に四ヵ所まであり、江戸・岩槻・忍と當城(河越)たりと」と記されていますが、鎌倉大草紙にはなかったような記述、その出典などが書かれておらず、確認はできませんでした。
 成田親泰が忍城を改築する前の忍城は、道灌公が築城した可能性はあります。新編武蔵風土記稿の埼玉郡之十八忍領の記載に「忍城
城下町 忍城は郡の西の方にあり、平城にして東を首とし西を尾とす...」とあり、利根川を隔て、古河の方を向いています。
 これは、道灌公(扇谷上杉氏側)が築いたことによると考えます。