「道灌公略譜」から岩槻城などの築城考察
「道灌公略譜(史籍雑纂苐三家傳史料6:国立国会図書館)」から、誰が岩槻城を築城したのかを考察してみます。 |
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道灌公略譜に「長禄元年丁丑、使三千代田、齋田、實田三氏之家臣、築二城壘於武州江戸、河越、岩築一矣」とあり、千代田氏,齋田氏,實田氏と三人の家臣を使って江戸城,河越城,岩築城を造ったと思われます。 この千代田氏については、「江戸名所図会(大正11年編(原本は天保3年(1832))国立国会図書館」に、 「千代田村奮跡 江戸名所圖會に云。今小傳馬町の裏の小路に。千代田稲荷といふ。小社あり。相殿に諏訪明神を勧請す。此地の里正宮邊某昔忍ヶ岡の麓より宅地に移すとなり。霊験奇瑞頗る多しといへり。或人云。此宮は寛正中太田道灌の弟千代田若狭守の勧請なる故に此名ありと。されども道灌に若狭守といへる同胞ある事を考へす。又系圖にも此名見えす。」とあり、 |
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千代田若狭守のことは、はっきりと分らず、系図にも見えないとしていますが、弟ではなかったが、家臣の千代田氏がいた可能性もあります。そして、推測ですが、千代田氏は江戸城の築城を担当したのかもしれません。
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