太田道灌の久下寄陣

 太田道灌が長井城を攻めに行く途中で、忍城の雑説を聞いて、久下に陣を寄せた。この久下の陣について考察してみました。 下記はその内容が書かれている太田道灌状での一部です。
   道灌状
久下寄陣  左図は現在のグーグルアースの地図と明治時代の迅速地図(*1)を合わせて、元荒川の北側の久下土手近辺で一番標高が高いところの上空で忍城の方向を鳥瞰図的に見たものです。そこの標高は35m(グーグルアース)で久下近辺では一番高いようでですが、忍城と直線で結ぶと、途中に標高33mの箇所があり、そこには現在も榛名神社があります。そうすると道灌はより忍城の動静が見えやすい忍城に近い久下の外れの榛名神社のある場所に陣を寄せた可能性が高いと思われます。

 そこから忍城までの距離は約3kmでその間の標高は19〜23m以下ですので、忍城(高いところで30m)は良く見えたと思われます。それ以外に見ることができたのはたくさんの馬や馬に付けた馬印、また大勢の人が動き回ったりしていれば一塊の人影のように見えたかもしれません。

 沢山の軍旗がはためいていればそれも見えたかもしれませんが、3キロの距離では、その旗に示した紋は新田義貞の軍旗のような大きな寸法の紋でないと確認できなかったように思われます。ネットで視力を調べると、視力1.0とは、1km離れた場所から約30cm幅のものが見分けられる能力(*2)のようで、視力1.5の人は3km先にある58cmのものの形は分るようです。視力が3.0でしたら、3km先のものでも30cmの大きさのものまで形状は分ったようですが、それほど目の良い人はいなかったように思います。

 忍城の軍旗の紋や太田道灌の軍旗の紋がこの時にどんなものであったかは不明ですが、小さな模様の紋でしたら判別は難しかったと思われます。

新田氏軍旗新田氏軍旗            信玄軍旗 武田信玄軍旗

 ちなみに武田信玄の軍旗「孫子の旗」は「縦3.8m,横77cm」で、紺地の平絹に金泥の文字で「風林火山」とあったようです。


   視力
 今では望遠鏡がありますが、望遠鏡が創られたのは15世紀末のようですので、この頃の日本にはなく道灌も使っていなかったと思います。そのため道灌状の解釈で「忍城にいる成田下総守の支援」とすると疑問が残ります。
    春名神社_忍

 下総守が忍城に居たならば、直接会いに行って力付けすることができたはずで、忍城から久下方面を見た場合に道灌軍と確実に判別できる距離でなかったと考えます。

 それは、この久下の陣からの距離よりも忍城に近く標高も高いところが忍城の近くにあります。そこは、後の時代で忍城を攻めた上杉謙信も石田光成も陣を張った、日本で一番大きい円墳の「丸墓山(標高36m)」で、忍城まで約2.5kmと久下の春名神社とした場合よりも500mも近くなります。
 なぜ忍城の動静が久下よりも良く見ることができる丸墓山に陣を張らなかったのか、それよりも距離の離れた久下に陣を張ったのか、考えてみると、道灌は自軍の到来を忍城方にはあまり見せたくなかったように考えられます。
       丸墓山_忍
 道灌は忍城の雑説を聞いて、久下に陣を寄せています。それを聞いたのは足利成氏から書状を貰った別符氏からかもしれませんが、成氏書状は文明11(1479)閠9月24日の日付で、道灌状で道灌が久下に陣を寄せたのは同じ年の江戸を立った11月28日の後の29日です。
 そこで考えられることは、下総守は成氏の書状を貰っていた別符三河守から「忍城用心」のことを聞いていた可能性がありそうです。道灌は、別符城にいる三河守よりも江戸から近い同じ親戚の下総守のところに寄った可能性の方が高いかもしれません。
 そこで、忍城の雑説を下総守から聞いた道灌は、忍城の様子を窺うため久下に陣を寄せたのかもしれません。この下総守は総社長野長尾氏からの養子であったかもしれませんが、道灌と一緒に久下の陣にいて、忍城の動静を確認したように思います。それで、道灌状に「成田下総守付力候之間」とあるように、道灌は成田下総守に直接「力付け」していたようにも考えられます。
 道灌状の「彼城無為候、御不審候者、事次如此申段、成田可有御尋候」は、「彼の城無為(何もなさない)候、御不審候らわば、事の次第を此の如く申す段、成田にお尋ね有るべく候」で、成田氏も忍城の動静を見ていたので、不審な点などがあったなら成田氏に聞いてくださいといったように思います。

 ここの解釈を黒田氏は「成田下総守を支援したので、忍城については無事に収まった」としていますが、久下から忍城を見て分るのは軍馬や大勢の人の動きや軍旗などのはためきくらいで、それが収まったとしたことを「無事に収まった」としているなら、それはやはり忍城の蜂起の雑説のこととしか考えられないと思います。
       榛名神社_長井
 享徳16年(1467)の結城七郎殿宛の足利成氏書状や系図などから近辺の長井氏は別符三河守と姻戚関係があり別符氏に従っていたと考えられます。
 また、妻沼の西城辺りに長井城が在って、そこに敵側がいたとしても道灌からは長井の城は見えず、長井からも道灌の陣様は見えなかったと考えます。
 それでは、道灌が久下に陣を張った意味がありません。

 「無為」でなく「無事」の文字が使われている書状もありました。下記の書状は「朝比奈泰朝」の書状のようですが、
   朝比奈泰朝書状
 「無事」を「何事もなく」とそのままの意味で訳しており、「無為」の「何もなさない」とは違っていると思います。また、この書状の中に、「雑説」の文字も見え、雑説を「不穏な動向」と訳しています。この雑説の訳し方は黒田氏も同じですが、忍城に成田氏がいて支援するならば、どうして丸墓山に陣を寄せなかったのか、旗などを立てなければ人目に入りにくい、久下に陣を寄せたのか。
 道灌が忍城近くの高台の丸墓山の事を知らなかったとは考えられず、そこに陣を張らなかったことは、雑説であったので、忍城側には知られずに偵察をしたかったように考えます。久下の榛名神社の場所は、隠れるようにして忍城を見れば忍城の戦に備えての動静は見え、忍城側からはその動静を窺う側の動静は見えにくかったところであったと考えます。