忍城,岩付城は誰が築城したのかその2

 

 はみ唐さんのブログ「はみ唐さん日記」に、“なお、稲付城の「稲」は『松陰私語』において、“草冠の下に稲”という構成で書かれているとされている。”とあり、“「会計ねこ子」さんは、この字が本当に「稲」であったかについて疑問を呈している。そして、「岩付」を草書体で書いたものが、その「岩」が“草冠に稲”に誤読された可能性も検討すべきであるとの指摘を行っている。”とありました。  https://ameblo.jp/hamikara/entry-12371281782.html

 
 会計ねこ子さんは、
“「松陰私語」の、「河越者松山・□付方々」(□は草冠に稲です。...この□、本当に「草冠に稲」でしょうか岩付の書き間違い、混同ということは絶対にないのでしょうか”
と書かれています。   
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12365658530.html
 
  私も松陰私語の中で岩付を探しましたが、見つけることができませんでした。「稲(草冠に稲)付」の文字は見ていたかもしれませんが、稲付城も実際にあった城のようですので、岩付ではないかとの疑問は持っていませんでした。

                        【松陰私語】
 山内 武州国中ヘ進発 武上相之一揆 四五千旗供奉 五日十日打過及  数月数年一 方々陣塁不二相定河越松山 稲
方々 地利遮塞御方行 其上豆州押妨2 1 早雲入道2 河越1 被招越  山内者向2 松山1 張陣被2 相攻1 .......敵者武州之越2 荒河1 者可有 合戦 僉議 向2 河邊1 引渡而早雲カ衆武州塚田前後 張陣 然処 河越之治部少輔殿頓死 江戸 河越 旱雲衆悉退散......

 松陰私語の五巻、写本によっては記載されている箇所が失われてしまっているものもあるようですが、。これは、「国立国会図書館の史籍集覧. 第12冊」の「松陰私語」の文を引用し少しだけ読みやすくしました。

 
 山内は 武州国中進発、武蔵,上野,相模の一揆、4〜5千旗を供奉(ぐぶ)して、 5日,10日経過、及び 数月数年 方々陣塁相定めず。 河越松山
方々の地利から、御方(政氏と顕定)が行くのを遮り塞ぐ、 其上豆州を押妨之した早雲入道を河越より招こさられ、山内は松山に向かい陣を張る、相攻められ......
 敵は武州の荒河を越え、合戦有るべし 僉議(せんぎ) 川邊に向かう引渡り而して早雲衆武州塚田前後に張陣 、然る処、河越之治部少輔殿頓死 江戸 河越 旱雲衆悉く退散......

 「河越者 松山 稲
付」の時期は、年月がはっきりと書かれていませんが、長享元年(1487)から長享の乱が始まった直後当たりに、扇谷上杉方が取リ始めた処置と考えられます。
 この乱の始めから、足利政氏は上杉定正を支援していたと見ておられる方は多いですが、ここに見える、「河越之治部少輔殿頓死」、明応2年(1493)10月の高見原合戦で定正が頓死してから、政氏は上杉顕定の支援を始めたのでなく、一度目の長享2年(1488)11月の高見原合戦高見原合戦の後には、既に顕定を支援*1するようになっています。
 この乱は、足利政氏が山内上杉と扇谷上杉のどちらを支援して行ったのかによって、後の足利政氏の忍城攻め、早雲の岩付城攻めの時に、その城を山内か扇谷のどちらが守っていたのかを解明することができます。
 *1:・中条弾正左衛門尉宛書状 上杉顕定書状 長享2年12月5日(1488)
    ・大森奇栖庵書状 大森氏頼→扇谷殿(定正) 12月 日(長享2年
    ・村岡御陣に於、足利政氏と上杉顕定対面 古河公方家書札礼書 喜連川文書(年不明)
    ・長享年中顕定と定正発波瀾、政氏、顕定と村岡如意輪寺に発向有  旅宿問答

岩付城

 この長享の乱、上杉定正は川越城を上杉顕定と足利政氏から守るには、松山城と岩付城は必須であったと考えられます。稲付城は江戸城を守るためには必要かもしれませんが、鉢形城、古河城の位置からから見て、河越城を守るために絶対に必要であったようには見えません。
 松陰は、「いわつき」を「いなつき」と聞き誤ったか、「いわつき」と書いたつもりで、草冠がついた稲のような文字になっていたのかもしれません。
 松陰は、「河越者 松山 岩付」と書いたつもりだったと思います。


 東京大学史料編纂所電子くずし字字典データベース


岩


厳


巖
巖02

 今、残されている稲の文字は、源君美(新井白石)の書写した文字からのようで、元の文字はどのように書かれていたのか、松陰が書いた原文が、もしかして見つかったら、どのように書かれていたのか分かるかもしれませんが、永正6年(1509)頃に書かれたもの、源君美は約200年後の元禄頃に書写したもの、書籍の一部が欠けていたり、保存状態もあまり良い状態ではなかったと考えられ、稲の元の文字も読みにくかったのかもしれません。

忍岩付

 忍城は成田氏が奪い、再構築した城では、「ない」と考えています。それは、足利政氏が攻め取って、その後、杉本伊豆守と成田下総守を城に入れたように考えます。それは、足利政氏が忍城攻めで、怪我をした蓮沼三郎のことについて、その治療について、書を芹沢土佐守に発行しているからです。


政氏

 その後、暫く経って、下載の記録があり、北条氏綱が大永5年(1525)に里見義豊の鎌倉攻撃で破壊された鶴岡八幡宮の造営を天文元年(1532)に開始し、その奉賀を募った諸将の中に、「忍 杉本伊豆守、その後に成田某、名前の箇所は破損してしまい、読めなかったようですが、成田某と記載されていたようです。
 これを見ると、忍城に居た城主のような人は杉本氏であり、成田氏はそれに続く人であったと思われます。この杉本伊豆守に、黒田氏も他の誰も注目はしていませんが、足利成氏が成田から古河へ帰座の時の、梁田氏からの別府三河守への感謝の副状の時から登場していた人物で、政氏も杉本伊豆守は家臣として、成田某は別府三河守の関係者として、重用していたのかも知れません。

 
梁田氏副状  梁田茂助書状、年未詳となっていますが、太田道灌が“荒川を越し鉢形と成田の間(別府)に張陣し候処、夜中(7月17日)に簗田中務大輔方より早馬を申す如くんば、上州において御申合され候首尾を以って、上下御一統に候、然れども景春御近辺に候間、御難儀の趣きに候、急ぎ一勢を遣わすべき旨申し候間、未明(18日)に打ち立ち、道灌、景春陣へ馳せ向い候処、退散せしめ候、その隙に公方様利根川を御越え候き...(太田道灌状)”と、道灌が景春を追い払い、そのことを別府三河守が成田陣にいる足利成氏に知らしたことについての成氏の御書の副状ですので、文明10年に比定できます。
 この時、成田陣にいたのは杉本伊豆守で、成田氏はいなかったと考えます。
 

杉本

 この成田氏について、現在も調べていますが、成田系図や龍淵寺に残る史料からは紐解くことはできないと思っています。龍淵寺に残る史料は正しい歴史が記されていないと思います。
 今、分かり始めたのは。少しだけですが、成田顕泰は二人いて、文明16年(1484)に没した成田下総守顕泰、その後、永正6年(1509)に、柴屋軒宗長が武州成田下総守顕泰亭に立ちよったり、杉本伊豆守の所で「年の内の雨は時雨に残りけり」の詩を詠んだことです。
 成田氏は、成田記で書かれたように、忍氏を滅ばして、忍の城に移ったは無かったこと、忍氏の名も長享の乱の中にも見えません。
  成田記は、上之の名主小沼十五郎が文化7年(1810)に成田氏の事を書き残した史料ですので、あまり信頼は置けないように思います。
 私の見た成田氏は、忍城も築けることはなく、また、岩付城も築けることはできなかったと考えます。