忍城,岩付城は誰が築城したのか−その2
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はみ唐さんのブログ「はみ唐さん日記」に、“なお、稲付城の「稲」は『松陰私語』において、“草冠の下に稲”という構成で書かれているとされている。”とあり、“「会計ねこ子」さんは、この字が本当に「稲」であったかについて疑問を呈している。そして、「岩付」を草書体で書いたものが、その「岩」が“草冠に稲”に誤読された可能性も検討すべきであるとの指摘を行っている。”とありました。 https://ameblo.jp/hamikara/entry-12371281782.html |
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| 会計ねこ子さんは、 “「松陰私語」の、「河越者松山・□付方々」(□は草冠に稲です。...この□、本当に「草冠に稲」でしょうか。岩付の書き間違い、混同ということは絶対にないのでしょうか” と書かれています。 https://ameblo.jp/zennchou/entry-12365658530.html |
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| 私も松陰私語の中で岩付を探しましたが、見つけることができませんでした。「稲(草冠に稲)付」の文字は見ていたかもしれませんが、稲付城も実際にあった城のようですので、岩付ではないかとの疑問は持っていませんでした。 |
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この乱の始めは、足利政氏は上杉定正を支援していたと見ておられる方は多いですが、ここに見える、「河越之治部少輔殿頓死」、明応2年(1493)10月の高見原合戦で定正が頓死してから、政氏は上杉顕定の支援を始めたのでなく、一度目の長享2年(1488)11月の高見原合戦高見原合戦の後には、既に顕定を支援*1するようになっています。 この乱の始めから、足利政氏が山内上杉と扇谷上杉のどちらを支援して行ったのかによって、後の足利政氏の忍城攻め、早雲の岩付城攻めの時に、その城を山内か扇谷のどちらが守っていたのかを解明することができます。 *1:・中条弾正左衛門尉宛書状 上杉顕定書状 長享2年12月5日(1488) ・大森奇栖庵書状 大森氏頼→扇谷殿(定正) 12月 日(長享2年カ) ・村岡御陣に於、足利政氏と上杉顕定対面 古河公方家書札礼書 喜連川文書(年不明) ・長享年中ニ顕定と定正発波瀾、政氏、顕定と村岡如意輪寺に発向有 旅宿問答 |
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| この長享の乱、上杉定正は川越を上杉顕定と足利政氏から守るには、岩付城は必須であったと考えられます。稲付城は江戸城を守るためには必要かもしれませんが、鉢形城、古河城の位置からから見て、河越城を守るために絶対に必要であったようには見えません。 松陰は、「いわつき」を「いなつき」と聞き誤ったか、「いわつき」と書いたつもりで、草冠がついた稲のような文字になっていたのかもしれません。 松陰は、「河越者 松山 岩付」と書いたつもりだったと思います。 |
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東京大学史料編纂所電子くずし字字典データベース |
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今、残されている |
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| 忍城は成田氏が奪い、再構築した城ではないと考えています。それは、足利政氏が攻め取って、その後、杉本伊豆守と成田下総守を城に入れたように考えます。それは、 |
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下載書状があり、北条氏綱が、大永5年(1525)に里見義豊の鎌倉攻撃で破壊された鶴岡八幡宮の造営を開始し、その奉賀を募った諸将の中に、「忍
杉本伊豆守、その後に成田某、名前の箇所は破損してしまい、読めなかったようですが、同成田と記載されていたようです。 |
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| この成田氏について、現在も調べていますが、成田系図や龍淵寺に残る史料からは紐解くことはできないと思っています。龍淵寺に残る史料は正しい歴史が記されていないと思います。 今、分かり始めたのは。少しだけですが、成田顕泰は二人いて、文明16年(1484)に没した成田下総守顕泰、その後、永正6年(1509)に、柴屋軒宗長が武州成田下総守顕泰亭に立ちよったり、杉本伊豆守の所で「年の内の雨は時雨に残りけり」の詩を詠んだことです。 成田氏は、成田記で書かれたように、忍氏を滅ばして、忍の城に移ったは無かったこと、忍氏の名も長享の乱の中にも見えません。 成田記は、上之の名主小沼十五郎が文化7年(1810)に成田氏の事を書き残した史料ですので、あまり信頼は置けないように思います。 私の見た成田氏は、忍城も築けることはなく、また、岩付城も築けることはできなかったと考えます。 |
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