成田四家

現在の成田氏や別符氏の研究は成田記や成田系図などを基にしてされている。そうして、それから成田四家ありの調査を始めています。これは成田記や系図などを信じての調べ方で、真実は見つからないように考えます。それは成田氏を中心とした調べ方となっているようです。成田記から調べていくとどうしても成田氏中心のものとなってしまいますので、成田記を除いてその他の物語や書状などの文献から調べてみました。
 

最初に成田氏と別符氏が見えるのが保元物語で、この文献の成立は承久の乱(1221)前後と考えられているようです。
 下表は保元物語の諸本から別府氏と成田氏に関係する箇所を抜書きしたものです。
   *1:保元物語上(慶長頃)「国立国会図書館」
   *2:流布本巻之一(書写年不明) 「校註日本文学大系」日本文学電子図書館
   *3:京都大学附属図書館蔵 「保元物語」上中下三冊
   *4:京都大学附属図書館蔵 保元平治物語 6巻(保元物語3巻,平治物語3巻)  


 ・官軍が御所へ押し寄せる時に、義朝に従う武士の一部分です
*1   武蔵からは豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・川上三郎別府次郎・奈良三郎・玉井四郎..
*2   武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎別府次郎・奈良三郎・玉井四郎..
*3   武藏國には熊谷次郎直實・平山武者所季重・豊嶋四郎・箱田次郎・河上大()郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎..
*4   武蔵には豊島四郎。中条新五新六。成田の太郎。長井の斎藤別当実盛。同三郎実員。箱田の次郎。河上三郎。 別府の次郎。奈良の三郎。玉の井の四郎...

 ・「白河殿を攻め落とす事」の戦いの中の武士の一部です。
*1 中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・奈良(川上?)次(三?)郎岩上太郎・別府次郎・玉井奈良)三郎...
*2 中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・奈良(河上?)三郎岩上太郎・別府次郎・玉井(奈良?)三郎...
*4 中条新五・新六・成田の太郎。箱田の次郎・奈良(河上?)の三郎岩上の太郎。別府の次郎。玉井(奈良の三郎...
 ( )内の赤字は注記したもので、保元物語の誤記ではないかと疑っている箇所です。

 不思議なことに『京都大学附属図書館蔵「保元物語」上中下三冊』は他の本と少し違って成田氏の名前が載っていないことです。これらの文面から見える一族としては、「成田太郎・箱田次郎・川上三郎」と「岩上太郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎」の二つのグループがあるように考えられます。
 この保元物語の表現からすると「成田四家」といった見方はできないように思われます。

 「源平盛衰記」は鎌倉中期から後期に成立したと考えられているようです。
「源平盛衰記」 元暦元年(1184)1月  範頼義経京入事
大手搦手、尾張国熱田社より相分て、宇治勢多へ向けり。大手の大将軍は蒲(かばの)冠者範頼、相従ふ輩には、...、別府太郎義行、長井(ながゐの)太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、.....
 京の木曾義仲(源義仲)との戦の時のことで、別府太郎義行を新編武蔵風土記稿の香林寺の項などから、行隆と考えていましたが、「よしゆき」であるので別符能行に比定されると考えます。

 平家物語は延慶本の奥書に延慶2年(1309)とあるようですので、それ以前には成立していたものと考えられているようです。
「平家物語」 元暦元年(1184)2月
平家追討軍の出発【搦め手】大将軍:源義経
老馬、...そこへ同じく武蔵の国の住人で別府の小太郎清重という十八歳になる若者が進み出て言うことには、「父の義重法師が教えて言うには、例えば山越えの狩
りであれ、敵に襲われた時であれ、山の中で道に迷った時には、年老いた馬に手綱を結びかけて先に追い立てて行け、必ず道に出られるとのこと.....
 元暦元年(1184)の「一の谷の合戦」に大将軍の義経に従った別府の小太郎清重は「十八歳」と歳が書かれており、清重が若かったことと、その父の名が「義重」であったことも分ります。
清重は東別符嫡家系図では、行隆の子の維行(初は清茂、改能行、又能幸)に比定されているようですが、そこに疑問が生じます。それは「忍名所図絵(1825頃)」,「小田原記(1593頃)」,「武家事紀(1673頃)」などでの成田家傳などに、
別府殿をは左衛門尉行隆と申す、この行隆に二人の子あり、兄をは左衛門佐行助、弟治部太浦義行....東別府義行の子別府小太郎義重、其子行重寿永三年の..義経の御供申一谷の先駆し...
 とあることで、義行(能行か)の子の義重(維行か)の子の行重(清重=行忠か)が一の谷へ行ったことになっています。これらからすると、「平家物語」の清重の父は義重で義行は祖父となり、別符系図や東別符嫡家系図では一代、義重が抜けていることになります。この箇所の東別符氏の流れを整理すると、「行隆→義行(能行)→義重(維行)→行重(行忠)」になるように考えます。
系図上では、「能行」と「維行」を同一人物としてしまっているようですが、ブリタニカ国際大百科事典に「鎌倉幕府の場合は、将軍に名簿 (みょうぶ) を提出して見参に入り,所領安堵を得て御家人となるのが通例であった」とあるように、所領は、その名に対して安堵していたと思われ、簡単には名の変更はできなかったと思われます。
  http://www.geocities.jp/fujineed/page001.htmlの安貞2年(1228)の項参照願います

 香林寺にある墓(供養碑)や伝承は、平家物語からそのまま持ってきているように思われます。
「旅宿問答」には下記の記載があります。
行隆の子に左衛門督行助、治部少輔義行とて両人候、義行、東行助跡を継候、攝州一谷などへは代官と為し、東小太郎立てとか見て候
 行隆は子の義行を代官として、その子か孫かは読み取れませんが、東小太郎を攝州一の谷へ立てたことになっています。旅宿問答は古そうに見えても成立したのは奥書の永正四年(1507)頃と思われ、江戸時代後期に書かれた成田記などと比べると、それよりも早い時代ですが比較的新しい時代に書かれたものです。永正四年頃には成田氏は既に忍城に居たと思われ、成田氏を中心とした成田四家の中に別符氏も含まれた説はでき上っていたように考えます。
文献上で、「成田四家」らしい表現が初見されるのが、「旅宿問答」です。
此助隆に四人子有、次男に左衛門督持従三位行隆是別府也、三郎は奈良、四郎は玉井嫡子、次男伝々。
 別符氏に関係する書状(一次史料)で成田氏の名が見える初見は、建武4年(1337)の千葉カ胤房打渡状の「上総国畦蒜(あびる)荘泉郷を別符尾張権守(幸時)代官成田小朗幸重に打ち渡す」であり、その後は約140年後の文明11年(1479)の足利成氏書状の「忍城用心」に見えるだけです。別符氏の甥の成田きく王丸が別符氏の猶子になる以前の成田家と別符家の関わり合いは多くはなかったように思われます。

 次は吾妻鏡から見ていきます。吾妻鏡の成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃のようです。
 ・建久元年(1190) 源頼朝に従って上洛
雨降。午一剋リに属す。其後風烈し。二品御入洛。法皇密々に御車を以て御覽。見物の車、.....其の行列。先づ貢金の辛櫃(からびつ)一合。.....
卅八番  廳南太郎   藤九郎    成田七郎
卅九番  別府太郎   奈良五郎   同弥五郎
 頼朝は千余騎の御家人を率いて入京し後白河法皇に拝謁したが、この時には征夷大将軍には任官されなかったようです。別府太郎は元暦元年(1184)に18歳だった清重(行忠)と思われます。

 ・承久三年(1221) 6月14日、宇治合戰で敵を討つ人々
成田五郎〔一人〕             同藤次〔一人〕
奈良兵衛尉〔一人山法師〕       別府次郎太郎〔一人〕
 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したことから始まった承久の乱で、幕府軍の総大将として北条泰時が京都へ進軍するのに従って、途中の宇治川で戦った時のことで、別符維行は、寛元々年(1243)に別符郷幷中里村所領を行忠に譲渡しており、55歳の行忠と思われます。

 ・寛元二年(1244)七月
別府左近將監成政が申す相摸國 成松名の事、懸物を召し之を糺明被(さ)る可きと云々
 別符系図の能幸の次男の政行(成政改)か。

 ・建長二年(1250)
閑院内裏の造営を割り当てられる。
.....二條面西洞院東廿本
二本      成田入道跡
.....二條面南油小路西十六本
一本      別府左衛門 
前年、焼亡した閑院内裏を鎌倉幕府が閑院造営の雑掌を御家人に配分した目録で、左衛門の名から西別符氏かもしれない。

 ・建治元年(1275) 六条八幡宮造営注文、支出を命じられる。
建長元年二月(1249)に焼失した社殿再興の為の費用の割り当てです。

成田入道跡           6貫   
別符左衛門尉(行助カ)跡   5貫
別符刑部丞(義行)跡     3貫
  この「行助カ」、「義行」を入れたのは、熊谷市史を編纂された方が書き込んだと思います。この頃の「跡」というのは、その人の親父から引き継いだ領地の事を示しているようで、別符左衛門尉跡は、弘長3年(1263)に出雲来海荘に弘長寺を創建(弘長寺旧蔵文書)し、文永8年(1271)の北島家譜に見える、「出雲杵築大社頭役、2番相撲頭:別府左衛門妻(光助は卒か)」藤原満資(別符光助)を指し、別符刑部丞は行忠から文永3年(1264)に別符郷幷中里村領を譲渡(東別符嫡家系図)された行宗を指すようで、成田入道は、陸奥国鹿角郡柴内村や意宇郡宍道郷坂田郷と武蔵国成田郷など大きな領地を得ていた安保信員妻の父、成田家資(家助か)であったと思われます。費用の割り当ては領地の大きさと比例していたと思われます。

 次に「鎌倉大草紙」ですが、文明11年(1479)までの関東の動静が書かれているようですので、それ以降の成立と思われます。
児玉党には大類・倉賀野、丹党の者ども、其外荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、甕尻
  「禅秀の乱」、別符氏は当初は上杉禅秀に味方したか、西別符氏が禅秀に味方して、東別符氏は禅秀の敵方であったかもしれません。この鎌倉大草紙の中にも成田氏の名は見えません。
 成田記には、上杉禅秀の乱(応永23年(1416)〜)、「成田家時は別府、奈良、玉井等一族をつれ執事上杉憲基に随い相模川の合戦に奮戦し、軍功すこぶる多く、関東公方足利持氏も鎌倉に帰り、成田家時の忠賞を行い、家時も礼を厚うして出仕し関東の八家といわれるようになった」とありますが、成田家を継いでおらずに、いなかったかもしれない家時、和庵清順の生年から龍淵寺の開基でもなかったと思われる家時、禅秀の乱に参加したという一次史料は無く、応永24年(1417)の別符尾張入道幸直代内村勝久着到状に、「着到武州北白旗一揆、庁鼻和御陣..鎌倉」とあるように、「武州北白旗一揆」は別符氏が率いていました。

                  熊谷市郷土文化会誌の田村五郎氏の別府文書から

  一次史料から成田系図や成田記を検討比較


 弘安10年(1287)、宗智(別符行宗は、古別符郷内安枝本名幷中里村を嫡子せんすそう(幸時)に譲りました。
 
 暦応2年(1339)、「成田基員は、騎西郡成田郷成田・箱田平戸村郡司識、恩賞に給いたる成田四郎太郎秀綱跡・同五郎左衛門入道(家綱カ)跡・平戸小八郎跡などを嫡子“くす王”に譲与しました。」
 
 永享2年(1430)、道久は、甥の“きくわう(きくおう王)丸”を猶子として、武蔵国中条保・上江袋の郷を譲与しました。安保氏の基員が成田の名前を継いだ後(その前からの慣習であったかもしれませんが)、嫡子への相続は“○○丸”としているように見えます。別符氏は“せんすそう”で“丸”は付いていません。
 成田系図の「資員 五郎左衛門 二男立嫡子」、「家清 五郎四郎 太郎 立二郎」、これは成田系図や別符系図などだけからでは説明ができないことと思われます。
 "資員は次男だが嫡子として立てた”、“家清は長男だが次男を立てた”として見ると、道久譲状は、別符郷の本名は資員(菊王丸)に譲っておらず、資員を猶子として「中条保と上江袋の郷」を譲ったものと考えます。
 
 旅宿問答(永正4年(1507))で彦右衛が成田四家のことを語っておりますが、保元の頃は別の家系(崎西郡と幡羅郡)であったのが、この道久譲状(永享2年(1430))から別符氏と成田氏の関係(別符氏と安保氏の関係はこれ以前からあったように思えますが)で、実際は最初からはなかった「成田四家」の説ができたものと考えられます。
 一次史料から見ると、家時の代には既に安保成田氏の基員と泰員が継いでおり、家時の事跡は虚構となります。
 道久譲状や別符文書や大私部直姓成田家系図などから見ると、推定するに禅秀の乱で安保成田氏,玉井氏と別符氏の一部は禅秀側に与して領地を召上げられたと考えられ、別符氏は甥の成田氏嫡男を別府氏の養子に、次男を別符氏の猶子としたと考えられます。この時に大私部直姓成田家系図にあるように、資員は別府館に住み、顕泰は不明ですが、親泰は西別府に移り住んだのかもしれません。
 
 資員と親泰は別符成田氏です。