成田四家
現在の成田氏や別符氏の研究は成田記や成田系図などを基にしてされている。そうして、それから成田四家ありの調査を始めています。これは成田記や系図などを信じての調べ方で、真実は見つからないように考えます。それは成田氏を中心とした調べ方となっているようです。成田記から調べていくとどうしても成田氏中心のものとなってしまいますので、成田記を除いてその他の物語や書状などの文献から調べてみました。 最初に成田氏と別符氏が見えるのが保元物語で、この文献の成立は承久の乱(1221)前後と考えられているようです。 ・官軍が御所へ押し寄せる時に、義朝に従う武士の一部分です
・「白河殿を攻め落とす事」の戦いの中の武士の一部です。
不思議なことに『京都大学附属図書館蔵「保元物語」上中下三冊』は他の本と少し違って成田氏の名前が載っていないことです。これらの文面から見える一族としては、「成田太郎・箱田次郎・川上三郎」と「岩上太郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎」の二つのグループがあるように考えられます。 この保元物語の表現からすると「成田四家」といった見方はできないように思われます。 「源平盛衰記」は鎌倉中期から後期に成立したと考えられているようです。
平家物語は延慶本の奥書に延慶2年(1309)とあるようですので、それ以前には成立していたものと考えられているようです。
清重は東別符嫡家系図では、行隆の子の維行(初は清茂、改能行、又能幸)に比定されているようですが、そこに疑問が生じます。それは「忍名所図絵(1825頃)」,「小田原記(1593頃)」,「武家事紀(1673頃)」などでの成田家傳などに、
系図上では、「能行」と「維行」を同一人物としてしまっているようですが、ブリタニカ国際大百科事典に「鎌倉幕府の場合は、将軍に名簿 (みょうぶ) を提出して見参に入り,所領安堵を得て御家人となるのが通例であった」とあるように、所領は、その名に対して安堵していたと思われ、簡単には名の変更はできなかったと思われます。 http://www.geocities.jp/fujineed/page001.htmlの安貞2年(1228)の項参照願います 香林寺にある墓(供養碑)や伝承は、平家物語からそのまま持ってきているように思われます。 「旅宿問答」には下記の記載があります。
文献上で、「成田四家」らしい表現が初見されるのが、「旅宿問答」です。
次は吾妻鏡から見ていきます。吾妻鏡の成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃のようです。 ・建久元年(1190) 源頼朝に従って上洛
・承久三年(1221) 6月14日、宇治合戰で敵を討つ人々
・寛元二年(1244)七月
・建長二年(1250)
・建治元年(1275) 六条八幡宮造営注文、支出を命じられる。 建長元年二月(1249)に焼失した社殿再興の為の費用の割り当てです。
次に「鎌倉大草紙」ですが、文明11年(1479)までの関東の動静が書かれているようですので、それ以降の成立と思われます。
成田記には、上杉禅秀の乱(応永23年(1416)〜)、「成田家時は別府、奈良、玉井等一族をつれ執事上杉憲基に随い相模川の合戦に奮戦し、軍功すこぶる多く、関東公方足利持氏も鎌倉に帰り、成田家時の忠賞を行い、家時も礼を厚うして出仕し関東の八家といわれるようになった」とありますが、成田家を継いでおらずに、いなかったかもしれない家時、和庵清順の生年から龍淵寺の開基でもなかったと思われる家時、禅秀の乱に参加したという一次史料は無く、応永24年(1417)の別符尾張入道幸直代内村勝久着到状に、「着到武州北白旗一揆、庁鼻和御陣..鎌倉」とあるように、「武州北白旗一揆」は別符氏が率いていました。 熊谷市郷土文化会誌の田村五郎氏の別府文書から 一次史料から成田系図や成田記を検討比較 弘安10年(1287)、宗智(別符行宗は、古別符郷内安枝本名幷中里村を嫡子せんすそう(幸時)に譲りました。 暦応2年(1339)、「成田基員は、騎西郡成田郷成田・箱田平戸村郡司識、恩賞に給いたる成田四郎太郎秀綱跡・同五郎左衛門入道(家綱カ)跡・平戸小八郎跡などを嫡子“くす王”に譲与しました。」 永享2年(1430)、道久は、甥の“きくわう(きくおう王)丸”を猶子として、武蔵国中条保・上江袋の郷を譲与しました。安保氏の基員が成田の名前を継いだ後(その前からの慣習であったかもしれませんが)、嫡子への相続は“○○丸”としているように見えます。別符氏は“せんすそう”で“丸”は付いていません。 成田系図の「資員 五郎左衛門 二男立嫡子」、「家清 五郎四郎 太郎 立二郎」、これは成田系図や別符系図などだけからでは説明ができないことと思われます。 "資員は次男だが嫡子として立てた”、“家清は長男だが次男を立てた”として見ると、道久譲状は、別符郷の本名は資員(菊王丸)に譲っておらず、資員を猶子として「中条保と上江袋の郷」を譲ったものと考えます。 旅宿問答(永正4年(1507))で彦右衛が成田四家のことを語っておりますが、保元の頃は別の家系(崎西郡と幡羅郡)であったのが、この道久譲状(永享2年(1430))から別符氏と成田氏の関係(別符氏と安保氏の関係はこれ以前からあったように思えますが)で、実際は最初からはなかった「成田四家」の説ができたものと考えられます。 一次史料から見ると、家時の代には既に安保成田氏の基員と泰員が継いでおり、家時の事跡は虚構となります。 道久譲状や別符文書や大私部直姓成田家系図などから見ると、推定するに禅秀の乱で安保成田氏,玉井氏と別符氏の一部は禅秀側に与して領地を召上げられたと考えられ、別符氏は甥の成田氏嫡男を別府氏の養子に、次男を別符氏の猶子としたと考えられます。この時に大私部直姓成田家系図にあるように、資員は別府館に住み、顕泰は不明ですが、親泰は西別府に移り住んだのかもしれません。 資員と親泰は別符成田氏です。 | |||||||||||||||||||||||||
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