忍城の秘密
映画の「のぼうの城」での石田光成の水攻めで水の中に浮く城のように見えましたが、忍城は石垣を積んでの防備でなく、堀の水がその代りをしました。成田記にあるように、成田親奏が忍城の忍大亟を攻めた時に、後の石田光成の忍攻めの時と同じような造りであったなら、親泰も簡単には攻め落とすことができなかったと思われます。推測するに自然に作られた沼や川で防備する形であったと思われますが、親泰が築城し直した後の完璧な水で守れる城でなく、どこかに弱点を残したものであったように考えます。
その水で守るについて、成田用水の事を来間先生(熊谷市郷土文化会会長)の講義で知りました。これは、「新編熊谷の歴史」の中にも「忍城主となった親泰は、城を守る水を得るため荒川に堰を造って水を引き、成田用水路を造りました」と記述があります。また、石原にある赤城久伊豆神社の社伝(埼玉の神社:埼玉県神社庁)に、「久伊豆神社が赤城神社に合祀された経緯は、忍城主となった成田氏が自らの城の防備と領内の灌漑のため、用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したが、後に荒川の流路が変わり、境内地が浸食されるようになったので、やむなく赤城神社に合祀されることになったという」とあり、堀の水の取り入れ口と水路を造ったようです。 この神社は、ここに近い熊谷商工高校(商工分離前)が野球で初めて甲子園に行った頃の応援歌で知ったもので、「赤城神社の神主が、おみくじ引いて申すには、いつも、熊商は勝っち、勝っち、勝っち、勝っち」と歌っていました。 一方、忍城側では成田氏の祖、藤原氏の氏神大和春日大社を勧請し春日神社を創建したようですが、これが親奏の頃とすると、今は東別府神社ですが別符氏が春日社を勧請したよりもずっと遅い年代と思われます。
「埼玉の神社」には、「当社は忍城主成田下総守親泰が、氏神として大和の春日神社から勧請したもので、成田氏は遠く藤原氏の流れをくむ家柄と伝える。親泰は成田氏15代目で、児玉重行が居斌(城)する忍妹(?)を文明年間に攻め、児玉氏を追い本拠を成田館から忍城に移している。そのため、当社の創建もこのころかと思われる。社の裏の森陰には大樋が設けられ、これを閉めると忍城の堀と沼の水源が断たれ、佐間の天神社の沼尻の樋を開放すれば水は放出されやはり城の回りの水は干上がる。このため、この地には成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えて、城を守護していたのである。このように春日神社は、成田氏の氏神ばかりでなく忍城の守りの要であった」と書かれてあるようです。 下の左図は明治19年の迅速地図で、春日神社は忍城の北方にありますが、春日神社の境内は広く忍城の北側近くまであったと思われ、「大樋」は現在の地図でいうと、行田市の総合体育館の南側の道一つ南側の道の端(神社の北端)に比定しているようで、昭和54年3月に建てられた碑がここにあります。

上の右の写真は現在のもの(グーグルアースから)ですが、碑の右側に残る水路は細い流れですが、今も残っているようです。 また、昭和9年に発表された「行田音頭(西条八十作詞、中山晋平作曲)」の十番に 「沼干楽しやヤッチョマカセ 沼干楽しや落とせば水も 想うお方の里へ行く 想うお方の里へ行く」 との歌詞があります。 それから、ネット上の「行田昔話」で見つけましたが、「忍の地の高低をよく調べ、掘と沼をめぐらし、大沼尻の樋と谷郷春日神社裏の大樋とを同時に開閉すると、瞬時に忍沼の水は乾掘(からほり)となるようになっていた。大沼尻とは今、畠山の松で知られる「船つなぎ松」の処にあった樋で、近年まで「沼干(ぬまひ)」という春を告げる行事があって、「沼干たのしやヤッチョマカセ」の行田音頭の歌の様に、干上った忍沼に鯉鮒のつかみ取りの出来たのも忘れられてしまった」とありますので、昭和の始め頃までは、別府沼の「けえどり」よりも効率良く川魚を捕っていたようです。
 ただし、この沼干は成田氏が戦に明け暮れていたころはできなかったと推測でき、徳川の時代になって大きな戦のなくなった江戸時代以降のように思われます。「樋」の事は重要な秘密であり、通常は左の昭和初期の忍沼の写真のように、四手網で魚を捕るのを江戸時代の忍城主が許していたように考えます。思うに、親奏が忍城を改築してからは城の防御に関する重要な沼の水を抜くことはなかったように思われます。 忍城の秘密とは、この水を満たす堰と枯らす堰があったことです。忍城の発掘調査でも掘っていくと湧水があったようで、多分、まったく涸れるような状態にはならなかったと思われますが、部分的には敵に討ち入られるような箇所ができたのかもしれません。そのために、いつも堀には水を蓄えておく必要があったように考えます。
「成田記」には間違っていると思われるところもありますが、その成田記に、「成田親泰、延徳二年より地形を計り、家臣新曽部(にそべ)卓斉を相手に縄張りして、地形の高低を利用し塀、櫓、門等の工事にとりかかった。近隣の別府、玉井、奈良の三家はいうに及ばず、久下、吉見、中条等の他門まで人夫を出してくれたので、竣工早く「関左の名城」となり、延徳3年成田の地から忍の地へ移り、...」とあり、水に浮かぶ城としての縄張りには一年以上は掛かったと思われます。この時に縄張りを考えた「新曽部卓斉」について調べてみましたが、成田分限帳の中でも見つけることができませんでした。
次の図は忍城の絵図で、江戸中期から後期に作られたようですが、北の方の水路に「セキホリ此末大セキ堀アリ」と記載されており、北方に「大堰」があったようです。
南東には天神が見え、「天満(満の崩し字)ハシ」が見えますので、この頃には橋を掛けてしまったのかもしれません。 それから、論文「利根川治水の成立過程とその特徴」(アーバンクボタ「N0.19利根川宮村忠:日本河川開発調査会理事(河川工学)」)によると「中条堤」は、成田親奏が築堤したという説もあるようです。(下載は論文の中のもの) 
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