別符氏の出雲の寺創建と安枝名の御厨


1.出雲国来海(きおみ)庄に弘長寺創建


  承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府討幕の兵を挙げた承久の乱に、別符氏や成田氏などが幕府側として参戦し宇治橋で戦ったことが「吾妻鏡」に見えます。その勲功として出雲の国に領地を得て、新捕地頭となったようですが、この領地を与えられた時の文書は見つかっていません。下の文書は松江市史に掲載されていたもので、別符氏が来海庄に寺院を創建したようです。

    弘長寺縁起
          「弘長寺縁起(弘長寺旧蔵文書・東大影写:松江市史資料編3古代・中世T(2013)より)」

弘長3年(1263)に君であった北条重時・時頼の菩提を弔うため、当寺を建立した「左衛門尉藤原朝臣満資」の別符氏が手記したようです。別符氏系図の中の西別符行助の子に光助(左衛門尉)がおり、満資は“みつすけ”とも読め、年代的にも合っており、「藤原」を名乗っていたことが分かります。
 
弘長寺は来海(きおみ)庄に建立された寺院で、現在も松江市宍道町東来待に在ります。ネット上の情報で、成田氏が建立した寺院と思っていましたが、それは、「宍道町史通史編上巻(2001)」で、弘長寺の創建は成田氏となっていたため、その本を読んだ方がネットで流した情報も成田氏の創建としていたものと思われます。この宍道町史を確認すると、文書で成田氏の名を確認したのでなく、成田系図などから成田氏が総領家であると見られていたことや、左衛門尉の妻は成田家より嫁に入ったようだとか主観的な考えで、成田氏が宍道郷でなく来海庄に創建したと考えたようです。
 
「松江市史」は細かな説明は書いてありませんが、杵築大社三月会相撲舞頭役結審の「来海庄」の地頭が「別府左衛門尉妻」なっていることから別符氏としたようです。「松江市史」も、「熊谷市史」と同じように2番まで欠けた千家文書が載っていますが、北島家譜でなく、1番から書いてある佐草家文書も載っており、別府左衛門妻が確認できます。
 閑院内裏の造営の「左衛門」の名、下記の杵築大社三月会相撲舞頭役結審、「左衛門妻」からしても、別符氏(西別符氏の可能性)が創建したのが正しいように思われます。
杵築大社三月会相撲舞頭役*熊谷市史の千家文書は二番までが欠けているため、東大史料編纂所の北島家譜から引用

 熊谷市史の光西寺松井家文書の文永9年8月25日(1272)の「関東下知状」に私党の西條兵衛太郎の領地のことが載っていますが、そこに「出雲国真松名除南尼分」と書かれています。 杵築大社三月会相撲舞頭役の五番に「真松保、拾伍町伍段大 西條 利弘庄、参町、同人」と別符氏と何らかの関係が有った西條氏も出雲の新保地頭となっていたようです。
 
これらから見ると、九州からはわりと近くの地、文永の役(1274)弘安の役(1281)の元寇(蒙古襲来)の時には戦いに駆けつけていたかもしれません。
 
その後、後醍醐天皇の討幕運動の元弘の乱(1333年)で新田義貞に攻め落とされた鎌倉幕府、このことで出雲の新保地頭であった別符氏(西別符氏か)も成田氏も所領を没収されてしまったと考えられます。
 
一方、東別符幸時は1333年の翌年に南朝の後醍醐天皇より勲功として、上野国下佐貫内羽彌を貰っており、新田義貞と同じ討幕勢力の足利義詮のもとに参じたようです。




2.安枝名が伊勢二所皇大神宮の御厨に

 「大神宮叢書 伊勢二所皇大神宮御鎮座伝記(紙背文書)3」(三重県史伊勢の神宮の外宮を中心に説かれた伊勢神道の基本典籍)」に、「安枝名 武蔵入道閑宗後家分者」が書かれており、これを発行したのは、建武2年、それ以前からの記述の、同年9月とあることから、建武元年(1334)のようです。
 伊勢二所皇大神宮御鎮座伝記
 「応為二所大神宮領当国柳名以下参拾弐筒所事」とあり、太政管符案のようですが、これが正式に発布された後、建武2年に別府の安枝名の閑宗後家分が、伊勢神宮の御厨(みくりや)になったと考えられます。
 幸時が健在な時、父の法名は「宗智」で祖父は「行円」、もしかしたら「宗」の字がある父かもしれませんが、違っていても幸時の親族と推測できるように思います。


「中務大輔某奉書 正平14年(1359)(益田文書)松江市史資料編3古代・中世T」
成田七郎左衛門尉の出雲国宍道郷南方地頭職が、兵糧料所*として預け置かれる。*年貢の一部もしくは全部が、武家政権の許に兵糧米としての供出が定められた所領
このころに、別符氏の来海庄なども南朝方によって没収されたのかもしれません。

「狩野円明譲状(狩野家文書)永享9年(1437)松江市史資料編3古代・中世T」狩野円明、来海荘菅原名の惣領分を助太郎に譲渡する。



 「痰氏碧信宗等寄進状(弘長寺旧蔵文書)永享11年(1439)松江市史資料編」

出雲国来海庄新庄分、弘長寺之寺領山野屋敷并田畠等之事、惣光寺に寄進する

   


 ここで別符氏が創建した弘長寺の寺領の一部も他の寺院に寄進されてしまったようです。