西暦 |
和暦 |
出来事 成田・別符系図を除く(東別府嫡家系図は間違っているところもありますが、わりと正しいことが書かれていると思います) |
出典 |
0809 |
大同04 |
「武蔵国幡羅郡米五斗、部領使□□刑部古□□、大同四年十□月」(奥州多賀城跡から出土した木簡) |
多賀城木簡 |
0834 |
承和01 |
武蔵国播羅郡の荒廃田百二十三町を冷然院に宛てられたる |
続日本後紀 |
承平(934頃) |
幡羅郡の内、霜見郷・余戸郷,幡羅郷,那珂郷,荏原郷,広沢郷,上秦郷,下秦郷
※別符は幡羅郡家のある幡羅郷内、これ以降、一次史料での「幡羅郷」は明治時代まで見えない |
和名類聚抄 |
1030 |
長元03 |
下総国の平忠常は謀反を企て武蔵国に攻め入った。3年に渡り鎮圧できず、冷泉院判官代甲斐守源頼信が乱を平定 |
|
康平(1060頃) |
家忠 嫡子武蔵太郎幡羅郡主、散位従五位下武蔵大夫 後冷泉院平康(康平カ)年中追討、奥州安倍貞任高宗任之時、属源義家朝臣下向関東、是ヨリ子孫幡羅郡居住 ※散位従五位下の家忠は不明だが、この頃に幡羅郡の別符に移り住んだか? |
東別符嫡家系図 |
寛和〜寛治 985〜1094 |
道宗 嫡子幡羅太郎 堀川院御宇、自寛和至于寛治、百年計や ※堀川院御宇(円融天皇・堀河天皇の御代カ)、道宗の名も伝承の中だけのよう |
東別符嫡家系図 |
保延頃 1140頃? |
助高 嫡子成田太郎、散位従五位下成田大夫、号大夫入道 属左馬頭源義朝々臣 ※なぜ長男なのに幡羅から崎西に?、義朝々臣とあることから保元の乱には息子の成田助廣(太郎),別府行隆(次郎)等と参戦?、1140年頃に成田館を築いた(1050年頃には成田館は無かった) |
東別符嫡家系図 |
1156 |
保元01 |
○武蔵からは豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・川上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斎藤別当実盛・同三郎実員... ○中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・奈良?(川上)次?(三)郎・岩上太郎・別府次郎・玉井?(奈良)三郎... ※「中条氏と成田氏は崎(埼)玉郡」で横山党の出自か?「岩上氏?(別符氏)は幡羅郡」出自不明、 この時に大里郡の熊谷直実も参戦していた。
|
保元物語(上) 国会図書館
*安政3年(1856)武蔵国絵図より作成 |
1159 |
平治頃 |
行隆 二男成田太郎助廣舎弟 武州幡羅郡別符郷居住、 別符次郎 甲斐権守 従五位下
法名行観 建久十年正月廿日卆去 平治之乱之比属左馬頭源義朝々臣 鎌倉右大将頼朝御代 ※幡羅郷は、これ以前より「別符」の地名もあり、幡羅郷から別符郷となったか |
東別符嫡家系図 |
1184 |
治承08 |
清重、義経の一の谷の戦に従う。
(国立国会図書館)
系図と比べると、小田原記,武家事記,忍名所図会増補では一代多い、小田原記では「その系図を尋ぬるに...」とあり、成田氏から聞いた話と思われる。あるいは、そのような伝承が残っていたかもしれない。 |
平家物語 |
1184 |
治承08 |
別符義行、源範頼に従う 別府小太郎忠澄、義経に従う |
源平盛衰記 |
1184 |
治承08 |
成田五郎卅騎計にて馳来る、別府次郎義行源範頼に従う |
延慶本平家物語 |
1184 |
治承08 |
成田五郎も主従三騎にて追来れり *源平盛衰記(内閣文庫蔵慶長古活字本) ※熊谷直実でさえ2騎、成田五郎は3騎のように思われます。延慶本平家物語は、30騎ですが、「3」の文字が見えます。やはり成田四家ではなく、成田,箱田,川上の成田三家(別符氏などを除く)だったのが正しいように思われます。 |
源平盛衰記 |
1190 |
建久01 |
37番 筥田(箱田)の太郎、38番 成田の七郎、39番 別府の太郎・奈良の五郎・同彌五郎、40番 玉井の太郎、41番玉井の四郎、 後白河法皇の要請により頼朝に従い上洛 (別府の太郎=能行か) |
吾妻鏡 |
1192 |
建久03 |
|
伊勢大神宮神領注文写 伊勢大神宮の神主が建久三年(1192)に諸国の神領に供祭物を注文した。その時の武蔵国の中に見える、仁安二年(1167)に宣旨された七松御厨の名がありますが、この比定地については不明のようです。 ※もう少し後の時代に、「七板」,七坂」の名前も出てきますが、この「七」に目が向いたのは、権田家文書に、「本城七尾山を改築」とあったことで、合っているのは「七」だけで、七板御厨は恩田御厨で合っていると思いますが、、武蔵国には、もう一つの「七松」か「七坂」と呼ばれていたかもしれない、もしかしたら別府氏の“安枝名”であったかもしれない? | |
新編埼玉県史資料編5 |
1204 |
元久01 |
関東下知状(源実朝)別符能行・行助兄弟、別府郷の相論を裁決される。 ※問注所の勘状(判決草案)に「行隆法師の契約は半分ずつ」と書かれていることを裁決の理由としており、以前に書かれた譲状を参考にしたと思われる。 ※この時、鎌倉府の役人が実検したところ、本田は124町であったようで、承和元年(834)の冷然院奉充の時の123町とほとんど同じです。 ※和名類聚抄の幡羅郡内の「幡羅郷」の名称が「別符郷」に変わっていたと思われる。
※集古文書:家臣成田行明藏 |
集古文書12 |
1221 |
承久03 |
宇治合戰で敵を討つ人々:成田五郎〔1人〕
同藤次〔1人〕奈良兵衛尉〔1人山法師〕別府次郎太郎〔1人〕 ※別府次郎の太郎=維行か |
吾妻鏡 |
1226 |
嘉禄02 |
12月16日(1226)京官除目:右馬充 藤 行忠(別符行忠か) ※別符行忠は在京の官吏だった? |
類聚国史紙背文書(石清水八幡宮所蔵) |
1228 |
安貞02 |
別符行資(行助)、別符刑部丞(維行)との別府郷についての提訴を退けられる *既に東別符家は能行から維行に替わっていた? ※幕府の御行書、別符氏の名前が変わっていたなら、その変わったことを記していたと思います。系図から能行=維行と考えるのは間違っていると思います。鎌倉府に届けて御家人となった名前、安堵の下知状などの裁許に見える名前は、後々まで相論などが繰り返された場合には重要な証拠となります。個人の事情で勝手に変えると、以前の裁許に載っている名前と簡単には同人である証明ができません。そのため、名前を変えるにはその手続きも必要であり、それに関する書状が見つからない限りは、能行=維行でなく別人と考えるのが正しいと考えます。
名簿(みょうぶ) 明月記研究
6号(明月記研究会 編集)
|
コトバンク(https://kotobank.jp/)より 見参(げんざん):世界大百科事典
第2版 「けざん」「げざん」「けんざん」とも読む。平安時代より見られる用語で,目下の者が目上の者のもとへ参上して対面すること。また逆に目上の者が目下の者を出頭させ対面すること,すなわち引見,謁見。また官人が節会や宴会に出席することもいう。〈見参に入る〉とは,高貴の人に面会する,または高貴の人に見せる意となる。 はじめ侍が主従関係を結ぶ場合,名簿(みようぶ)を捧呈する慣習であったが,武士の間にあってはその式は廃れ,源頼朝の場合も,戦陣の間のこととて,おおむね御家人として,単に初参(ういざん)の礼をとらせただけであった。
初参(ういざん):ブリタニカ国際大百科事典 平安,鎌倉時代,主従関係を結ぶために,従者となる者が初めて主君に見参する儀式。鎌倉幕府の場合は,将軍に名簿
(みょうぶ)
を提出して見参に入り,所領安堵を得て御家人となるのが通例であった。 | |
関東御行書 |
1231 |
寛喜03 |
寛喜3年春除目 2日目公卿補任 右兵衛尉 藤 行忠臨時内給 *東別符系図の行忠にも右兵衛尉の付記 |
民経記 |
1242 |
仁治03 |
左兵衛尉 藤 光助臨時内給(公卿補任) *別符光助(西別府)か |
平戸記 |
1243 |
寛元01 |
関東御教書 親父刑部丞維行法師(法名示観)去月(5月)3日譲状 将軍家政所下文、刑部丞維行法師、右兵衛尉藤原行□(忠)に別符郷?中里村所領の知行地を安堵 ※熊谷市史(資料編2)では、別符系図の能行の法名(示観)から「維行=能行」としているが、公式な下知状や御教書では、別人として扱っていたとしか見えません。系図では、能行と維行を同一人物としてしまったと考えます。 |
光西寺松井家文書 |
1244 |
寛元02 |
別府左近將監成政が申す相摸國成松名の事、懸物を召し之を糺明被る可きと云々 |
吾妻鏡 |
1245 |
寛元03 |
○今夜敍位之義、三公巳下公卿十人許参仕、左大臣執筆云々、敍人等、正五位下藤原公蔭、
同能行前皇后宮去仁安元年(1166)未給 *前皇后宮去により仁安元年に能行への官位が与えられていなかったためか、別人か? ○正月 右兵衛尉 藤 成政 ○四月 右兵衛尉 藤 光助(西別府) |
平戸記 |
1250 |
建長02 |
閑院殿造営の雑掌 2本:成田入道跡 1本別符左衛門(西別府) |
吾妻鏡 |
1263 |
弘長03 |
藤原満資(別符光助)、出雲来海荘に弘長寺を創建 (西別府)
「弘長寺縁起(弘長寺旧蔵文書・東大影写:松江市史資料編3古代・中世T(2013)より)」
|
弘長寺旧蔵文書 |
1264 |
文永03 |
行忠、別符郷?中里村領、行宗に譲渡 ※東別符嫡家系図から行宗の法名「宋智」に充てるのは間違っている可能性がありそう |
東別符嫡家系図 |
1271 |
文永08 |
関東御教書(北島家譜:東京大学史料編纂所の「データベース選択画面」をクリックし、「大日本史料総合データベース」 をクリックして「書名」にチェック(レ点)を入れて、「北島家譜」で検索すると、下載画面が表示されます。ここの「5」の右側の「稿」をクリックすると「0036.tif」を見ることができます。この書状は、「〜0048.ti」fまで続いています。
東京大学史料編纂所 | ○出雲杵築大社頭役、2番相撲頭:来海庄 別府左衛門妻 (西別府) ○出雲杵築大社頭役、5番舞頭:坂田郷 成田入道子 ・7番相撲頭:宍道郷 成田(四郎)
熊谷市史では、2番まで欠けている千家文書を出典としているため、「別府左衛門妻」は見えない。
| |
北島家譜 |
1272 |
文永09 |
関東下知状 西條兵衛太郎私盛定領地、武蔵国東江袋村内屋敷名田・出雲国真松名事 ※崎西郡の西條氏か |
光西寺松井家文書 |
1275 |
建治01 |
京都六条八幡宮造営に支出することが命じられる 成田入道跡 6貫 ・別符左衛門尉跡(光助跡=別府左衛門妻(西別府)か)5貫 ・別符刑部丞跡(行宗(東別府)か)3貫 |
六条八幡宮造営注文写 |
1287 |
弘安10 |
宗智(別符行宗)、古別符郷内安枝本名?中里村を嫡子せんすそう(幸時)に譲る (東別府) *集古文書:家臣成田行明藏
国立国会図書館蔵
|
左は、史料通信叢誌.
第5編(明治27年史料通信協会)が、発行したもので、宋智の譲状を元久元年の別符兄弟相論の下知状(第四続)の副書としているようです。 この宋智の譲状も熊谷市史(資料編2)では「集古文書12」となっていますので、元々は「家臣成田行明藏」となっていたのかもしれません。 この譲状を、東京大学史料編纂所でも元久元年の別符兄弟相論の下知状の副状としており、両書とも「成田行明藏」としています。これらは歴史を紐解く上で大切な一次史料で誰が所蔵していたかも重要なことですが、今は、単に「集古文書12」としているようです。 これは非常に大切なことと思います。なぜ、別符氏の貴重な文書を成田氏家臣が持っていたのか?、別符兄弟相論の下知状と弘安10年の宋智の譲状の内容は東別符嫡家系図には書かれていますので、この系図を作った人は二つの書状を見ていたと思われます。「成田記」や「別符系図」などから別符氏を追っていくと、真実は見えなくなっていきます。 ※左側の道久譲状は永享2年(1430)のもので、別符家に養子に来た家幸のことと解釈してしまうと真実は見えなくなってしまうと思います。詳細は後述の「道久譲状」のところで説明します。 | |
集古文書 |
1293 |
正応06 |
|
関東下知状、古別府安枝名内知行分の幸時の領有認可 「可令早別符兵衛太郎 法師□□領地武蔵国古別符安枝内知□分事...」
※これを熊谷市史では、東別符嫡家系図から、兵衛太郎=行宗に、行宗の法名(宋智)から、行宗が親父行忠から別府郷と中里村を譲与された、文永3年の譲状に対する安堵状と見ており、「文永3年の譲与に対する安堵が、27年後の正応6年に行われた理由は不明である」としていますが、一次史料(写)の、この下知状から解すべきと思います。 江戸時代初期に作られたと思われる系図には間違いもあることも考えられ、この安堵状は、弘安10年の「宋智から幸時(せんすそう)」への譲状に対するものと考えて良いのでは、と思われます。 東別符嫡家系図の行宗(宋智)の付記にも「弘安十年十一月廿七日重代所領幸時ニ譲」とあります。どうして系図の付記の「兵衛太郎」だけから、行宗にしてしまうのでしょうか。 ここでは、別の疑問がわきます。弘安10年の宋智の譲状には「中里村」がありましたが、この安堵状には含まれておりません。推測すると、弘安10年の宋智の譲状の後、宋智は「中里村」を成田氏(姻戚関係ができたか)にか?、誰かに譲り、その後作成し直した幸時への譲状からは「中里村」を除いたと考えられます。 譲与は悔返しができましたので、この下知状をもらう時に提出した譲状からは「中里村」が除かれていたと思われます。 譲状の所領範囲=安堵状の所領範囲、でなければならないはずです。 | |
尊経閣文庫所蔵文書) |
1295 |
永仁03 |
関東下知状 若児玉氏元の後家尼妙性が西条西願より買得した武蔵国西条郷伊豆熊名内田の所領に対する安堵の下知状 ※この文書は成田氏家臣が持っていた別符兄弟相論の関東下知状と異なり、別符氏でなく成田氏が持っているべきだった書状と考えます。熊谷市史(資料編2)でも明確な説明はありませんが、西条郷は崎西郡に所属していました。 これらの文書所蔵の不思議、どうしてそうなったかについては、後に出て来る一次史料の「道久譲状」の時に説明します。 |
別符文書 |
1318頃 |
文保02頃 |
成田太郎(家資か)の時に成田家の浮沈に関する事件(年不明) 「旦一期浮沈此事候之間委細為歎申、執権申下し」(金沢文庫古文書) ※成田氏に一家浮沈にかかわる事が起きたか |
金沢文庫古文書 |
1318頃 |
文保02頃 |
頭番成田左衛門尉跡注文(年不明) 幡羅郡
庁鼻和両名(東西庁鼻和か)別府□ 同 相石 益田 友成 玉井□ ※頭番は文永年間の関東御教書で別府左衛門妻が出雲杵築大社の頭役に引き当てられたのと同じように、寄(崎)西郡や幡羅郡の神事奉仕の頭番を成田氏がしていたのか? その成田氏が没落して、その跡職に別府氏などが注文を出したのか、成田左衛門尉がそれぞれの地に所領を持っていて、その領地に対して注文を出したのか、どちらかはわかりませんが、従来の成田氏の主流はここで没落したように思われます。 |
金沢文庫古文書 |
1318 |
文保02 |
関東下知状 成田家資(家助)女子(安保信員妻)跡の陸奥国鹿角郡柴内村の安保行員(信阿)への相続認可 ※成田氏の跡を安保氏が引き継いだ。 |
安保家文書 |
1319 |
元応01 |
関東下知状 別符幸時、東光寺修理の件、光綱後家尼崇恵(子息:重光)を幕府に訴える。 ※「別符二郎左衛門尉重光、乍知行一方免田」とあることから、幕府が免税を許可した田を持っていたことから、別符一族に関係することでなく、東光寺は幕府の管轄する寺であったと思われます。どこかは不明です。 |
別符文書 |
1325 |
正中02 |
信阿譲状案 安保行員(沙弥信阿)、基員にきさいの郡成田の郷地頭郡司職、箱田・平戸村内の屋敷や田、安保郷内一部、陸奥国鹿角郡東根内田山郷などや播磨国須富庄北方半分等を譲り渡す。基員は成田氏を名乗る。 ※成田系図や別符系図では成田家時頃か、家時は架空の人物か? |
八坂神社文書 |
1326 |
嘉暦01 |
比丘尼「法阿」、東別府の地に「キリーク一尊種子板碑」を造立 (個人蔵) |
熊谷市史 |
1326 |
嘉暦01 |
沙弥「蓮忍」が没し墓塔の「キリーク一尊種子板碑」を造立、友成関根久右衛門の追刻銘 (香林寺) ※友成関根久右衛門の銘は後に彫ったもののようですが、元は友成にあった板碑と考えられます。 |
熊谷市史 |
1327 |
嘉暦02 |
岐阜県の祖師野八幡宮に伝存する安保氏一門が書写して奉納した安保氏の信仰関係資料です。 http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=591 この調査報告の中で、新井浩文氏は、「では、なぜこの年に親族のために大般若経の祈願書写を行う必要があったのであろうか。考えられるのは、この2年前の正中2年(1325)12月6日に安保行員が播磨国須富庄北方半分を含む各所領を基員に譲与したことに起因していないだろうか。また、その後、倒幕に向けて不穏な動きをしていた後醍醐天皇に対して鎌倉幕府は元弘元年(1331)に軍勢を上洛させるが、その中に安保氏一族が見えることや建武元年(1334)になると建武新政権が須富庄知行安堵の国宣を基員に要求していることからもわかるように、末期を迎えた幕府と建武新政権の間で揺れる今後の一族の対応について不安を持った実恵が大般若経書写による一族繁栄祈願を発起したとは考えられまいか。いずれにせよ、今後の検討を待ちたい。」と、 また結びの言葉で、「なぜ安保氏が所領のない美濃国に納経を行ったかについては不詳であるが、最後の将軍守邦親王の祈願所であった真乗寺との関係が想起されることは想像に遠くないであろう。」と述べています。
この中に、安保氏の親族の「法阿」,「蓮忍」が見えます。なぜか、東別府に残る「キリーク一尊種子板碑」、偶然の一致とすればそれだけかもしれませんが、年代的には重なりを感じます。この頃に東別符氏の領地であった「友成」に別符氏と婚姻関係のあった安保氏がいたのかもしれません。 |
祖師野八幡宮所蔵大般若経奥書調査慨報(埼玉県立文書館) |
1328 |
嘉暦03 |
成田の地に別時念仏衆(時宗)が「キリーク三尊種子板碑」を造立 (上之泰蔵院) ※「中里」「妙性」の文字が見えます。正応6年(1293)の東別符氏の安堵状から消えた「中里村」、別符氏が持っていた永仁3年(1295)の若児玉氏元の後家妙性への関東下知状(安堵状:別符氏所蔵)、友成に住んだかもしれない安保氏との関係から、成田郷の成田基員もしくはその子供に東別符氏が「中里村」を譲っていた可能性もありそうです。この時点では、妙性への関東下知状は成田(安保)氏が持っていたと考えます。 |
熊谷市史 |
1328 |
嘉暦03 |
成田六郎入道女子の成田郷内西谷田六段が円覚寺正続庵に寄進 (円覚寺文書) ※成田氏嫡流は、文保頃(1318頃)の「頭番成田左衛門尉跡注文」によって絶えたのかもと思われます。成田六郎入道は不明ですが、その女子が寄進したのは「六段」と僅かです。成田氏庶流の女子が寄進したものと思われます。 |
熊谷市史 |
1331 |
元弘01 |
秋田助家代助泰申状、成田又四郎入道、幕府軍に属し、河内国赤坂城に戦う (和田文書) ※これも成田氏庶流かもしれません。 |
熊谷市史 |
1332 |
元弘02 |
|
後醍醐天皇が隠岐の島に流された時、医術のある成田小三郎も伴った。
※南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。 書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花。
後醍醐天皇が隠岐在住に再び討幕計画を立て、成田小三郎と名和泰長は、元弘2年10月頃から、隠岐脱出をあれこれと思案した。 (名和氏紀事)
※これも成田氏庶流と考えます。 | |
櫻雲記 国立国会図書館 |
1334 |
建武01 |
後醍醐天皇御綸旨 5月、別府尾張権守幸時、後醍醐天皇から恩賞として、上野国下佐貫の地を給する綸旨をもらう。 |
別符文書 |
|
|
|
|
|
|
<続く> |
|
|
|
↓ |
|
|
|
|
|
|
|
|
|