太田道灌の久下寄陣(荒川の瀬替前)

  
  国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所のページに、
“徳川家康の命を受けた伊奈氏は、後に「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる、利根川と荒川の瀬替えを行いました。利根川水系と荒川水系を切り離すこの大規模な河川改修事業により、荒川は熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川・市野川・入間川筋を本流にする流れに変わりました。”
 とあります。
 
 しかしながら、寛永6年(1629)以前からあったと思われる荒川からの古い流れ、新編武蔵風土記稿にある、本来の荒川本流の流れであったかも知れない、石原と熊谷の間から忍城方面に流れる「古川」が記載されていないようです。
 
 これまでは、現在の荒川の流れを想定して、太田道灌が荒川左岸側の久下に陣を張ったと思っていましたが、戦いの時には川などを挟んで対陣するのが陣の張り方と考えます。
 道灌が久下に寄陣した時のことを地形から考えると、その時には、元荒川と古川(荒川の)が忍城との間にあったようです。
 それでは、川を挟んでの隠れたような対陣は、成田氏が忍城にいたとしている説では、忍城と久下の間に路をさえぎる川がなかったら、そこに陣を張れば、忍城側も戦いの準備を始めてしまうかもしれません。もし成田氏がいたなら、太田道灌は、直接に忍城に行ったと思います。成田氏はこの時には、成田陣にいたと考えます。
 松陰私語に「五十子張陣之始(康正元年(1455))、当国守護長尾孫六(景棟か?)方被官、成田以下、」とあり、成田氏は山内上杉氏に従っており、簗田成助書状によると、この頃、成田には杉本伊豆守がいたようで、文明10年(1478)の足利成氏と山内上杉が和睦した後、成田氏は成田に帰っていたと考えられます。

 文書の解釈は、人によって変わると思いますが、その解釈する人が、どこまで突っ込んで、そのことについて調べたのか、ただ、「成田」の名が足利成氏の書状にあっただけで、成田氏がその頃には忍城にいたとする解釈は、間違っているように思えます。

 太田道灌が、久下に陣を寄せた時から、陣を張った時の様子を見ていきたいと思います。

    国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所のページより(2016/06/22追記)

荒川

荒川

荒川

 

 左図も同じページに載っている図ですが、久下で締切って、和田吉野川に付け替えたように見えます。

 締め切りの箇所から、忍城の方向への流れを断ち切ったように見えますが、これは間違っているように思われます。
 どうしてかと言えば、荒川から忍城への流れは、ここに見える元荒川と思える流れの他に、石原と熊谷の間の荒川から分岐して忍方面へ流れる「古川」がありました。この古川のことについては、後で述べます。

 

 左絵図は寛永10年(1633)のものと思われる「デジタルアーカイブ秋田県公文書館の日本六十余州国々切絵図_武蔵国」です。熊谷(宿)の上流、たぶん石原との間くらいから、熊谷の北を通る流れが見えます。
 
その流れは忍城の南側を流れており、絵図の川幅も西遷後と思われる荒川の川幅とほぼ同じです。
 これから考えるに、この流れとは別に久下からの元荒川への流れがあって、その流れは締切ったが、熊谷の上流から分岐する別の流れは残っていたように考えます。

和漢三才図会

 正徳2年(1712に)成立したと考えられている「和漢三才図会」、江戸時代の百科事典です。
 やはり、忍の南側を流れ、岩附(岩槻)の北側を流れる流れが見えます。
 これは書かれた絵図ですので、正確さは分りませんが、荒川も元荒川と思われている流れの川幅は同じように描かれています。
 
 
左図の下段の図は、「絵図に見るくまがや展」のパンフレットに載っていた絵図で、安政3年(1856)の「武蔵国全図 菊池武辰」の絵図と思われます。

荒川

 上の絵図からは50年程過ぎているためか、西遷した荒川よりも忍城方向への川幅は狭くなっています。
 
これらの絵図を見ていると、荒川の流れを久下で締切って、現在の荒川の流れとした、寛永6年(1629)の荒川の瀬替え、久下で締切ったはあったが、古利根川への流れは残っていたと思われます。
 
 
荒川の久下での締め切りは有った、でも、荒川の締め切りは無かった。

久下

 次の絵図は大分遡りますが、「絵図に見るくまがや展」のパンフレットに載っていた絵図で、水の流れや現在の地名を分りやすくするため、編集してありますが、元禄(1688年)以降の絵図と考えられているようです。
 この絵図は、荒川の蛇行している流れを真っすぐにする工事の図を表しているようで、旧河道の久下での締切りとされる個所辺りに、堰の跡のようなものも見えますので、この工事の時に、久下の荒川からの引水を完全に締切ったと考えます。
でも、熊谷宿の北側を流れる川の流れは少し細くはなったようですが、残っていたようです。

風土記稿_大里絵図

 この流れを、新編武蔵風土記稿(文政11年(1828)成立)では、「古川」と呼んでいるようで、

 「古川 元荒川一旦瀬を變ぜし時の水流なり、江川村下久下村等の北界にあり、寛永疏通の後も、水流通じて今にたへず、」、とあり、寛永の瀬替えの時にも流れはあったようです。

 また、荒川については、
 「荒川
 ...河原を通じては六百間許のところもあり、此川古は熊谷宿の北より埼玉の郡界を流れ、郡中下久下村の界にて、足立郡榎戸村へ達せしが、何の頃か川瀬變て江川及下久下村の界へ遷へり、その後、寛永六年伊奈半十郎忠治、命を奉じて穿しもの是今の水流なり、されど元の二流も今に水脈通じて、元荒川古川の名あり、」とあり、荒川が今の流れになったのは、「何の頃か川瀬変えて江川及下久下村の界へ変えり」で、その後の寛永6年に伊奈半十郎が穿ったようで、伊奈氏が行った瀬替えの工事は、国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所のページにあるように元荒川を荒川から分離する瀬替工事」あったが、それは上段の左側の絵図が伊奈氏の工事に該当すると考えられます。
 瀬替え(付け替え)ではなく、「荒川の蛇行している流れを真っすぐにする工事」と考えます。

元荒川

 元荒川については、
 「元荒川 前に伝へる埼玉郡の界を流るゝ奮流なり、今水元は郡中佐谷田村雷電社の御手洗より出づ、此川佐谷田の北埼玉の南の郡界を流れて、東の方郡中下久下村に至り、足立郡榎戸村へ達す、...」
 
とあり、左絵図の赤丸印の箇所を指していると思われます。
 絵図には見えませんが、
 「江川村 江川村も江戸よりの行程前村(下久下村)と同じ、民戸四十余、當村正保元禄の改めには載せざれど、土人は古より一村たりし云、現に隣村江川下久下村に江川分と唱る地は、もと當村の内なりしに、荒川の堀替の時別れて別村となれり...」
とあり、伊奈氏の堀替工事の時に分村があったようです。

明治8年絵図

 
大日本国郡便覧(明治8年(1875)6月刊)国立国会図書館蔵の絵図です。これは、河を実線で表しているようです。
 明治初期にも、荒川の分岐した熊谷の北を通り、忍の南を流れる古川は残っていたようです。

 但し、寛永10年(1633)の忍の南を流れてから岩槻の北を流れていた川は、岩槻の南側を流れるようになり、新たに利根川からの分水が岩槻の北側を流れるようになったように見えます。

 やはり、荒川の元荒川からの切り離しはあったが、瀬替えと言われるほどの掘削工事でなく、曲がった流れを真っすぐにする、掘削工事があっただけ、と思われます。
大正_荒川  大正2年(1913)頃の利根川第一期改修工事  内務省土木局の地図です。
 河川は分りやすくするため、青印を追記してあります。この地図では、久下の文字は荒川の北側にスペースがなく、南側に入れたようです。
 荒川の流れと元荒川の流れは変わっていないようですが、古川の流れは明治初期と比べると大分変っているようです。
 まず、熊谷の北を流れていた荒川からの分岐が無くなり、忍の南側を流れていた流れを忍の北側に変えたのかもしれません。


道灌_久下陣

  左絵図は、元禄(1688年)以降の絵図と考えられているようですが、太田道灌が久下に陣を張った時には、今の荒川の流れは無かったかあっても流れは細かったと考えられ、元荒川や古川を主に流れていたと思われます。
 久下の陣から見れば、二つの流れが間にあったと思われ、足利成氏の「忍城用心」から忍城に成田氏がいて、太田道灌がその成田氏を応援したということは、無理がありそうです。
 せめて、元荒川を超えて、忍城が良く見える、忍城からもよく見える、すぐ傍に陣を張ったなら、応援したことが分ると思います。
 やはり、太田道灌は隠れて偵察するつもりで、久下に陣を張って、成田下総守と一緒に忍城の様子を見たと考えます。
 そして、「彼の城無為候」と道灌状に書いたと思われます。


忍_岩槻


【追記:2016/06/16】
 関八州川筋絵図(天明三年(1783))を国立国会図書館デジタルコレクションで見つけました。
 流れの起点は不明確ですが、熊谷から忍城方面への流れは、北から、古川、惣川(残っていない川名)、元荒川と3本の流れが見えます。
 惣川は忍の手前で古川と合流して、岩槻の手前で、岩槻の南側と北側に分岐しているようにも見えます。
江川村
 また、新編武蔵風土記稿に
「古川 元荒川一旦瀬を變ぜし時の水流なり、江川村下久下村等の北界にあり、寛永疏通の後も、水流通じて今にたへず、」、
「...
現に隣村江川下久下村に江川分と唱る地は、もと當村の内なりしに、荒川の堀替の時別れて別村となれり...」
 とあるように、伊奈氏の堀替工事の時に、下久下村と江川村は荒川の右岸に分村ができてしまった事が分ります。